第2回中等教育の始まり

たかさき100年第2回写真 明治時代の高等女学校生

日本が近代国家として先進国の仲間入りをするには、多方面にわたって優れた人材を養成する必要がありました。高崎の先覚者たちは、市制施行を実現すると同時に中等教育の振興にも熱心に取り組みました。

明治30年(1897)に長松寺(赤坂町)を仮校舎としてスタートした群馬県尋常中学校群馬分校は、翌年上和田(現在の市立1中の場所)に移転しましたが、高崎に市制が施行された明治33年に独立して、群馬県高崎中学校(現高崎高校)となりました。当時の中学校は5年間で高等普通教育を行うところでしたから、明治35年に第1期生34人が卒業しました。その時の全校生徒291人のうち、現在の高崎市出身は190人でした(今年度の高崎高校在学生は1097人中616人が高崎市民)。早くも運動部には剣道・柔道・野球・庭球があり、学芸部は校友会誌『群馬』を発刊するなど、生徒の自主活動も盛んでした。後にチルデンと世界一を争った庭球の清水善造は7期生で、箕郷から走って通学したそうですし、8期生の歌人土屋文明は4年生で「眉長き旅僧の来たり秋の暮」の句を『群馬』に載せています。一方、学業そのものや勉強をする環境は厳しく、明治期を通して年平均93人入学しながら、5年後に卒業できた生徒はほぼ七割にすぎませんでした。

明治32年(1899)、地域の強い要望が実って、4年生の群馬県高等女学校(現高崎女子高校)が設立され、翌年末広町(今の市文化センターの場所)に堀と土塁をめぐらした立派な校舎ができました。県下でただ一つの高等女学校でしたから、海老茶袴をはいた生徒が県内各地から集い、第1期から6期までの卒業生332人のうち高崎出身は108人でした(今年度の高崎女子高校在学生は1108人中693人が高崎市民)。自宅から通えないたくさんの生徒が校内の寄宿舎で共同生活をしていましたが、その中から、心理学者で日本女性初の博士号取得者原口鶴子(旧姓新井・富岡出身)や、日本における女性医学部教授第1号の戸田クニ(桐生出身)らが卒業しました。明治37年に日露戦争が始まると、職員生徒一同で勝利を祈って椎の苗木を200本植えましたが、それが大木に成長して同校のシンボルとなり、現在では市立図書館前に豊かな木陰をつくっています。

(佐藤健一)

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