第5回十五連隊のあしあと

たかさき100年第5回写真 十五連隊の正門

明治4年(1871)、廃藩置県で廃城となった高崎城(現高松町一帯)は翌年から陸軍省の所管となり、昭和20年(1945)の終戦まで陸軍の兵営が置かれていました。その70年余りの大半は陸軍歩兵第十五連隊が駐屯し、高崎は十五連隊の街といわれるほどでした。

明治17年(1884)5月、西南戦争後の軍備強化に伴って高崎で新たに編成された十五連隊は、それまで駐屯していた陸軍歩兵第三連隊と交代するかたちでスタートします。同連隊は群馬、埼玉、長野県の出身者を中心に編成されましたが、編成早々の同年11月に起きた秩父事件(蜂起した農民は秩父だけでなく群馬、長野からも多数参加)の鎮圧出動が最初の実戦行動という悲劇的な出発を経験しました。明治27年、28年の日清戦争、37年、38年の日露戦争にも出動し、特に日露戦争では最激戦地に配置され、568人の犠牲者を出しています。

明治41年(1908)、宇都宮の第十四師団に所属するようになってからも、大正8年(1919)のシベリア出兵(ロシア革命に対する日、米、英などの軍事干渉)に十五連隊も動員されます。しかし、第一次世界大戦の終了は世界的に軍備縮小の動きを進めることとなり、大正14年(1925)の第三次軍縮では十五連隊の廃止説が伝えられ、市では旧制高校誘致や遊園地建設などの跡地利用を真剣に考えました。この時は十五連隊の存続と共に第二十八旅団司令部まで高崎に置かれ、「軍都高崎」の色彩が逆に強まる結果となりました。

昭和12年(1937)の日中戦争開始後、第十四師団の満州(中国東北部)移駐計画が本格化し、昭和15年(1940)8月、移駐決定。十五連隊も高崎を離れ「満州第四十六部隊」となってチチハルを新しい駐屯地とし、高崎には東部軍管区所属の「第百十五連隊(東部第三十八部隊)」が置かれます。その後、昭和16年から始まった太平洋戦争の激化により、十五連隊は南方パラオ諸島に派遣され、ペリリュー島の攻防をめぐってアメリカ軍と激戦を交え、2個大隊分(約2000人)が全滅し、昭和21年(1946)、日本に帰還できたのは1個大隊分の人たちだけでした。

(清水吉二)

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