第6回民営たばこの盛衰

たかさき100年第6回写真 明治時代の県内のたばこ製造業者

高崎はたばこの産地でした。より正確にいえば、周辺農家で栽培した、たばこを高崎で製造、販売していたといったら、初耳だという人もいるでしょう。

かつて、高崎を訪れた大田南畝(蜀山人)は『壬戌紀行』で町を詳しく観察し「絹太織、小間物、薬屋などみゆ、当国館山名産、沼田たばこと、かける障子もあり」と記しています。また貝原益軒の『岐蘇路記』には「館たばこ当世の名物」とあり、館煙草・山名の光台寺煙草は銘葉として知られていました。たばこを商う商人が店を出していたことから寄合町の東小路は「烟草横町」ともいわれていて、街道往来の旅人は、高崎のたばこを土産用に買い求めました。

明治維新後、世の中は変わりましたが、たばこ業界は相変わらずの状態を続けていました。高崎には、たばこ商人や刻みたばこ職人は多数いました。府県物産表によれば、葉たばこの県別生産高は全国第二位を占めていました。ところが、政府は財政収入を図るために、明治8年(1875)「煙草税則」を公布、たばこ印税を張り、売り主が実印または仕切り印を押すことになりました。

葉たばこが専売になるということは、葉たばこの専売権を政府が掌握するということを意味します。葉たばこ専売所は、検査、収納、保存に関する事務を処理するため設けられたもので、高崎は吉井煙草専売所の所轄の下におかれました。清水正夫さん(歌川町)所蔵の文書の中に、吉井煙草専売所から製造業者に出された葉煙草専売免許証、仕入証申請証などがみられます。こうして製造作業は、政府の直営を原則としましたが、政府は工場設備の不備な間は、補足機関として従来の業者にその一部を請け負わせたので、高崎では、刻みたばこの製造が民間でその後も続けられていました。

明治37年1月、製造煙草専売法は議会で可決され、7月から施行されました。他方、同年8月、八島町に高崎煙草製造所が設けられました。ちなみに、『高崎繁昌記』をみると、たばこ業者として、清水伊平、清水国太郎、中村重蔵、桑原重房、小倉兼吉、藤木惣平、市川卯之吉、樋口庄太郎らが記載され、たばこ商人93人(7人は卸兼業)、刻み職人は53人と記録されています。 しかしながら、高崎の重要な産業であった民営たばこは、製造煙草専売法の成立と共に、その歴史に終止符を打つことになりました。

(高階勇輔)

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