第7回子守学校と育児院

たかさき100年第7回写真 子守をしながらの授業(長松寺)

大正13年、山端息耕(長松寺・赤坂町)と田辺鉄定(興禅寺・下横町)の2人の僧侶(曹洞宗)が、宮中(宮内省)から社会事業功労者として表彰されました。表彰理由は樹徳子守学校と高崎育児院の経営に対する功績でした。

山端息耕が子守学校を始めたのは、長松寺本堂が北小学校の分教室に充てられていた明治36年に、小林茂校長から「子守教育は現下の緊急事業であるから之れを開始しては」と勧められたからでした。子守学校は明治から大正にかけて、41都道府県に設置されたことが確認されている教育機関です。その目的は、学齢期にありながら、家庭の貧困のため、自家や他家の子守となって働き、不就学を余儀なくされた児童(主に女児)に、嬰児(乳幼児)の子守をしながら、初等普通教育と嬰児保育法を授け、義務教育の普及を図りながら、彼らを良き保育者とし、その風儀を矯正し、合わせて地方の風俗を改良することでした。群馬県内にも14校が設置されました。

樹徳子守学校の存続期間は昭和19年までの40年6か月の長きに及びましたが、これは全国で8番目の記録でした(1位は長野県上田子守学校の50年1か月)。修業年限は2年(後6年)で、高崎市は「仮令実力ニ於テ不十分ナルニセヨ、其境遇ニ鑑ミ本市樹徳子守学校ノ卒業生ヲ以テ、義務教育修了者ト認定ス」としました。廃校までに3020人が在籍、卒業生は933人でした。

田辺鉄定が育児院を開設するに至ったのは、明治35年8月に、高崎駅で発見した捨て子を引き取ったことがきっかけでした。興禅寺には、高崎市内の曹洞宗寺院が組織した吉祥講の本部が置かれ、貧民救助と施米・現金救与、出征軍人貧困家族の救助と施薬・孤児養育を、講員の掛け金と寄付金、托鉢と慈善箱施入金を資金として行っていましたが、田辺は明治39年に寺内本堂に育児院を設けました。施設が狭くなったため、45年には隣接する向雲寺境内に育児院を建設しました。同院の役員は、(院主)田辺鉄定、(幹事)山端息耕、(会計)山内謙介、(評議員)村上盛庵・矢島八郎ほか6人、(監査役)喜美侯部智正でした。

田辺は同院経営維持のため、活動写真上映のほか、大正2年には院生による北海道開拓を行いました。天塩郡天塩村に約133兆歩の土地を同村寿養寺住職岸田道開と共同購入すると、院生がこの地に入植し、農園を造り、その収益金は育児院経営に充てられました。育児院は院生の減少のため昭和12年に閉院しました。

(手島仁)

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