第9回新思想誌『東北評論』の発行

たかさき100年第9回写真 「東北評論」第3号

明治38年(1905)、社会主義を唱え、日露非戦論を展開した『平民新聞』を継承した雑誌『直言』の読者会が高崎公園で開かれるなど、20世紀に入ると、社会主義・平和主義などの新思想が高崎にも入ってきました。

明治41年(1908)5月には、初期社会主義雑誌として知られる『東北評論』が柳川町(現高崎ビューホテル西側付近)を発行所として刊行され、高崎が新思想の発信地となります。発行所は、主幹の高畠素之らが間借りしていた場所で、八畳と四畳半、床の間にはマルクスの肖像が掛けられていました。高畠は、ここで生活のため英語塾を開いていましたが、新思想の青少年への影響を心配した当時の中学校や女子校の校長は、入塾を禁止したようです。

創刊号は、縦約30センチ、横約22センチ、10ページで学術雑誌としてスタートしましたが、時事問題を論じたとして発禁となってしまいます。その後、新聞紙条例に基づく出版物として再刊にこぎつけました。しかし、これも条例違反とされ、発行人ら3人が高崎警察署に捕らえられ、禁固2か月の刑を受けたため、通巻四号でその発行は終わりました。

発行の中心メンバーは、後にマルクス『資本論』の最初の完訳者となった高畠をはじめ、高畠の前橋中学(現前高)時代の同窓生と、前橋の『上州新報』や高崎で発行されていた『上野日日新聞』の記者など、新思想に目覚めた20歳前後の若者たちでした。このほかにも協力者が、安中、邑楽、長野県更埴、栃木県の足利や佐野などにもいました。高崎が発行所として選ばれたのは、こうした発行関係者が両毛・信越線沿線に多く、交流拠点として高崎が交通面で便利だったためと思われます。

発刊の2年後の明治43年(1910)、明治天皇暗殺を計画したとして幸徳秋水ら12人が処刑された「大逆事件」にかかわり、『東北評論』の関係者中、2人が死刑、2人が懲役5年の刑を受けることになります。処刑された1人、長野県の新村忠雄は、『東北評論』第三号の責任者の1人で、その判決書には、「群馬県高崎市ニ於テ東北評論ト称スル社会主義ノ新聞ヲ発行シ其印刷人トナリテ主義ノ鼓吹ニ努メ信念ハ最熱烈ナリ」と書かれていました。

(岩根承成)

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