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第11回明治期の市長 矢島・生沢・内田

ページID:0005073 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第11回写真
矢島八郎・初代高崎市長

明治33年(1,900年)4月1日、高崎は県内で2番目に市制を施行しました。6月に市会(市議会)が成立、市会推薦の市長候補者3人の中から、内務大臣が天皇へ上奏し、裁可を得て、7月17日に矢島八郎が初代市長となりました。

矢島八郎(1,850年から1,921年)は、新町に生まれ、若いころから運送業に励みながら、政治家としての素質を生かし、小区戸長、県会議員、初代町長などを務めました。国会の成立後は、市長に就任する前後3回にわたって衆議院に当選し、国政にも参画しました。

矢島市長の最も大きな業績は、水道敷設に着手したことで、測量などを行いましたが、日露戦争のため一時中断してしまいました。市長を辞める直前の明治39年(1,906年)、市政が目指すべき大方針「高崎市是」を発表し、第一期計画の最初に水道敷設の実現を提示しました。

高崎駅の開業に際して、駅用地を無償で提供、住民は新しい町名を矢島町と計画しますが、本人が固く辞退したため、八島町となりました。大正10年(1,921年)に死去、「葬会約3,000名、高崎始まって以来の盛式」(砂賀町日記)といわれました。昭和5年(1,930年)業績をたたえ観音山丘陵に銅像が建立されました。

第二代市長の生沢一太郎(1,851年から1,938年)は鍛冶町に生まれ、町長や市会議員を経て、明治39年(1,906年)に市長となりました。翌年懸案の水道工事に着手したほか、明治41年(1,908年)には県内初の甲種商業学校(現高崎商業高等学校)を宮元町に開校しました。同年引退し、その後は大正吟社という俳句の会で、熱心に俳句を詠むなど、会の中心となって活動しました。

第三代市長は内田信保(1,864年から1,946年)でした。佐賀市の出身で主に警察畑を歩み、福井警察署長から同県南條郡長となった人ですが、後任市長をめぐる争いを危惧した神山閏治群馬県知事の推薦で、明治41年(1,908年)に高崎市長になりました。主な業績は、明治43年(1,910年)、懸案の上水道を完成させたほか、市内有力者の賛同を得て開館した私立高崎図書館(大正8年市立に移管)や、大正4年(1,915年)人口増加に伴う東小の開校、大正7年(1,918年)の商業学校の県立移管などがあります。同年11月に退任、上京して明治神宮造営局参事、明治神宮外苑管理署長を務めました。

(森田秀策)