第13回明治43年の大水害

たかさき100年第13回写真 激しい濁流で流れ落ちた君ヶ代橋

明治43年(1910)8月、東日本を襲った豪雨は、県全域に天明以来といわれるほどの大災害をもたらしました。月初めからの長雨に加え2つの台風が相次いで通過したためです。8月1か月間の降水量は、烏川上流で1,121ミリ、碓氷川上流で1,038ミリという、想像を絶する数字を残しています。碓氷川と合流する烏川は、8月10日に7メートル以上も増水し、君ケ代橋が落ち、聖石橋も流失、また県下一の長橋であった柳瀬橋も崩落。ついには、日本鉄道会社が巨費を投じて建設し堅牢を誇りとしていた岩鼻鉄橋さえも流失してしまいました。

8月11日の午前1時、堤防を破壊した濁流は並榎町、歌川町へ浸入、人々は赤坂町の長松寺や並榎町の常仙寺へ避難しましたが、並榎町にあった製糸会社旭社などは濁流の中に取り残され、高崎十五連隊の兵卒が太い針金を渡して孤立した人々を救出するほどでした。

同日午後五時には、榛名山を水源とする榛名白川が氾濫して上並榎町を襲い、長野堰と合流したため、大橋町から成田町・末広町・本町・椿町・山田町・高砂町・九蔵町・田町・弓町・旭町などが浸水しました。

市街地の浸水は8月に入って3回目であり、すべての商店が休業を余儀なくされました。烏川右岸は、観音山に至るまで大海原のようになり、特に烏川と鏑川の合流地点である多野郡八幡村(現南八幡地区)の被害は甚大で、すべての田畑・財産を失った被災者のうち、14戸51人の人々は生活再建を志して朝鮮半島へ移住しました。韓国併合に関する日韓条約が結ばれて間もないときでした。

この水害による県内の死者・行方不明者は、306人に上りましたが、高崎市の被害は、床上浸水904戸、家屋の流失23戸、全壊3戸で死者や行方不明者などの人的被害がなかったのは不幸中の幸いでした。

水害のために開催が危ぶまれた群馬県主催の1府14県連合共進会は、予定どおり9月17日に開会しました。その一環として高崎市では、中央尋常高等小学校(現中央小学校)を会場に県教育品展覧会を開催。水害直後でしたが、多数の人が集まり、市民の心に明るさや励ましを与える催しになりました。

(金井千廣)

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