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第15回市民に親しまれた2つの劇場

ページID:0005078 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第15回写真
「高崎繁昌記」にある高盛座

高崎が市になる3年前の明治30年(1,897年)に『高崎繁昌記』という本が出されました。この本は、高崎の観光案内という面を持っていました。この中に、高崎の2つの劇場、高盛座と藤守座が絵入りで紹介されています。

高盛座は、明治27年暮れ、現在の井上山種ビル(八島町)の辺りに新築されました。当時県下随一といわれた劇場で、『繁昌記』には洋風2階建ての絵が載っています。高盛座は株式会社組織の貸劇場で、地方歌舞伎や文芸講演会、さらに当時出始めたばかりの「活動写真(映画)」の巡回上映なども行っていました。昭和4年(1,929年)に取り壊されるまでの35年間、高盛座は娯楽の殿堂として高崎市民に親しまれていました。中でも特筆すべきことは、明治歌舞伎界の大立者であり、不世出の名優といわれた9代目市川団十郎と並び称された、5代目尾上菊五郎の来演でした。

5代目菊五郎一座は、2度高崎に来ています。最初は明治18年ごろ、高盛座の前身であった岩井座で公演しています。2度目は、明治32年8月初めから月末までの公演でした。天下の名優が、1か月近くも高盛座で上演したのですから、当時の高崎市民の熱意と財力には驚くほかありません。

一座を迎えるため、市内の有志が一口20円の株を引き受け、資金に当てたといわれています。このころの精米一石(150キロ)が10円ほどでしたから、今の金額に換算すると15万円くらいになります。菊五郎一座の公演期間中は、連日超満員という盛況ぶりでした。

藤守座は、明治13年(1,880年)に田町通りに面して建てられた劇場ですが、『繁昌記』で紹介されている藤守座は新紺屋町に移転後のものです。大正5年(1,916年)に世界館と改称して映画館になりました。その後、第二大和、松竹映画劇場、オリオン座と名前を変えて現在に至っています。

一方、明治37年に発刊された『群馬県営業便覧』には、高盛座と藤守座のほかに、「席亭(寄席・演芸場)」として、新町の高崎亭、鞘町の共楽館、新紺屋町の松田亭の3軒が掲載されています。人口が3万人程度であった高崎に劇場・演芸場が5軒もあったのです。活動写真が庶民の娯楽の一つとして人気が出る以前のことであり、当時の高崎市民の活気が伝わってくるようです。

(今井英雄)