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第16回明治期の電気・ガス事業

ページID:0005079 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第16回写真
明治36年に設立された高崎水力電気(株)

明治期において、地方都市の近代化を示すバロメーターの1つに電気とガスの供給がありました。県内における電気供給事業の始まりは、明治27年(1,894年)の前橋電灯会社と桐生電灯会社でした。高崎の電気供給事業が始まったのは、10年後の明治37年になってからでした。しかし、この10年の間に電気技術の進歩もあり、大きな出力の発電所が建設できるようになりました。

明治36年(1,903年)6月に高崎水力電気株式会社が設立され、高崎市街地から10数キロ離れた烏川の上流室田に発電所を建設、翌年の明治37年12月に開業しました。前橋・桐生の出力が50キロワットであったのに対し、高崎水力電気の出力は300キロワットでした。明治38年の統計によると、供給戸数1,666戸、電灯数5,794灯と記録されています。

この年の前橋電灯会社の供給戸数は255戸、電灯数896灯でしたから、高崎では極めて多くの会社や商店、家庭などが電気の恩恵を受けていたことになります。

このころの電灯は炭素線電球と呼ばれているものでしたが、ガス灯の白熱マントル(炎を覆う器具・発光剤を吸収させた網をガスで熱して発光させる方法)が発明され、従来のガス灯の数倍の明るさが得られるようになると、ガス事業が注目を集めるようになりました。

明治40年代になると全国各地でガス会社が設立されるようになりました。明治45年(1,912年)7月、井上保三郎を社長とした高崎瓦斯(ガス)株式会社が資本金10万円で設立されました。弓町の線路脇に工場を建設、大正2年(1,913年)7月に開業しました。前橋瓦斯は、高崎より少し遅れて大正元年10月設立、大正2年11月に開業しています。

その後、炭素線電球に代り、明るく電気代の安いタングステン電球が普及すると、ガスは灯火としての使命を終え、熱用として使われるようになりました。

高崎瓦斯は大正3年11月、高崎水力電気に合併され、ガス事業は電気会社の兼営事業になりました。その後、高崎水力電気は東京電灯に合併されました。ガス事業は、昭和3年に東京電灯から分離されて関東瓦斯となり、その後東京瓦斯に合併され現在に至っています。

高崎水力電気を吸収した東京電灯は、関東配電を経て現在の東京電力に引き継がれました。

(原田雅純)