第17回東小の開校と中央小の移転

たかさき100年第17回写真 大正4年に開校した東尋常小学校

明治35年(1902)、市内の児童は、北・南・中央の3つの尋常小学校に通学していました。明治41年、義務教育が4年から6年に延長されると児童数が急増しました。また、市内で1校しかなかった高崎高等小学校を中央尋常小学校に合併することになりましたが、中央尋常小1校では高等科の生徒の受け入れは困難でした。そこで、中央小・北小・南小に分散することにしたため、3校の校舎は一層狭くなりました。

明治43年9月、中央小を会場として県教育品展覧会が開催されたため、北小・南小に、それぞれ16教室を増築し中央小児童の授業を行いました。就学率も年を追って高くなり、大正2年(1913)には男女平均で97%を超えるほどになりました。この年の市内の児童数は、4,644人、毎年100人前後も増加したため、次々にバラックの教室が建てられ、3校併せて11もありました。

大正3年、市ではこうした状況を改善するため、弓町121番地に総工費16,000円余りを投じ旧市内で4番目となる東尋常小学校を新築、大正4年4月1日に開校しました。職員は校長のほか12人、学級数11、児童数は男子325人、女子352人でした。通学区は、九蔵町・高砂町・椿町・羅漢町・真町・弓町・北通町・白銀町・元紺屋町・旭町・山田町・通町・田町四丁目・赤坂村の一部でした。

一方、中央小の前身である中央尋常小学校は、明治6年(1873)5月、第12番小学校として高崎市内で初めて設立されました。明治10年、宮元町の石上寺跡地(現東京電力)に敷地面積約4,000平方メートル、コの字型の校舎を新築、大信寺から移転しました。大正10年ごろには、尋常科18学級、高等科10学級、児童・生徒数1,450人となり、運動場は狭く、校舎も古くて危険な状態でした。

そこで市は、常盤町の元高崎水力電気会社跡地付近に移転を決め、大正12年(1923)2月に着工、同年12月に開校しました。2万1,540平方メートルの広い敷地を持ち、総工費15万3,000円余りをかけた大規模な学校となりました。烏川に近く、校地の大部分は水田を埋め立てて造成しました。

(鈴木重行)

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