第18回商工業都市への脱皮

たかさき100年第18回写真 大正3年に創業した高崎板紙株式会社

大正の初めごろ高崎では、商業都市から商工業都市への脱皮が有識者の間で熱っぽく語られるようになりました。第一次世界大戦前後から、会社組織が台頭する時代になりました。

当時高崎市内にあった株式会社86社のうち81社が、合資会社28社のうち22社が大正生まれでした。この中の1つ、高崎板紙株式会社(現高崎製紙株式会社)は、大正期を代表する工業として板紙・ボール紙を製造、高崎が商工業都市として発展していくきっかけになりました。

高崎板紙株式会社は、大正3年(1914)高崎市立図書館において創立総会を開催、取締役社長に井上保三郎、常務取締役に青木勘之助・荒木仙十郎・小島弥一郎など、当時の実力者たちが役員になっていました。八島町地内に工場敷地を求め、同年末には創業しました。

工業用水は、長野堰の水を使っていました。なお、高崎板紙株式会社は、大正7年に上毛製紙株式会社を合併して資本金30万円の企業となり、生産能力月産700トンに達するまでに発展、昭和2年には日光板紙株式会社と合併し、資本金150万円の企業になりました。

創立者の井上保三郎は、「土地に産業を興すには、その土地に原料を求めるのがもっとも手早い方法である」という信念を持っていました。

従来、板紙の原料には主として稲わらが用いられ、麦わらを使用する工場は皆無でした。しかし、井上保三郎は、高崎周辺の農村が全国屈指の麦産地という土地柄であり、また麦わらの方が稲わらより安いという点を考え、麦わらを主原料に取り入れることで既存の板紙会社と十分に対抗し得るという目算を立てました。また、稲わらも高崎の商家、問屋筋で捨てられてしまうような俵、縄などを大量に集める方法を取り、生産コストを抑えました。販売面や原料調達では交通の要衝にある利点を十分に活用しました。

大正13年(1924)に労働統計実施調査が全国一斉に行われましたが、それによると、高崎で30人以上の労働者を雇用している企業として丸万製糸、小口組製糸、上州絹糸紡績などの製糸工場や小島鉄工所、また、高崎板紙、日清製粉、高崎護謨、本間捺染、高崎テープなど、それぞれ地場性を生かした工場が名を連ねています。

(高階勇輔)

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