第20回関東大震災と高崎

たかさき100年第20回写真 震災後の浅草仲見世通り

大正12年(1923)9月1日の昼ごろ、高崎は大きな地震に襲われました。電柱はグラグラと動き、棚の上にあったものが音を立てて落ち、何かにつかまらなければ立っていられないほどでした。激しい揺れはおよそ10分間続きました。午前11時58分、相模湾を震源地とするマグニチュード7.9の大地震が起こったのでした。

高崎板紙株式会社(現高崎製紙)の大煙突2本が途中から折れ、上州絹糸紡績会社など多くの工場の煙突も折れてしまいました。土蔵の壁が崩れ落ちたのも多かったのですが、つぶれた家はありませんでした。夜までに大小の余震が30回以上も続き、南東方面の空は真っ赤に染まりました。いろいろな流言飛語も流れました。人々は道路や広場に避難し、ほとんど寝ないで夜を明かすありさまでした。やがて、東京で大災害が起こったことが伝えられたのでした。

9月2日の午後、所沢の飛行場を飛び立った飛行機が高崎の連隊の上空を旋回して通信筒を落とし、連隊を通じて救援を要請しました。高崎市でも救援活動を始めました。救援物資を集め、3班の救護班を結成して東京に派遣することにしたのです。荒川の鉄橋は不通になっていましたが、この日の午後遅くなると、埼玉県の川口駅から通じていた高崎線に乗って、着のみ着のままの避難者が高崎駅にたどり着くようになりました。煤と泥で汚れた人たちで列車はすべて満員でした。

駅頭では、市内のいろいろな団体が救護所を設けて、次から次へとたどり着く避難者に対し、傷の手当てをしたり、食べ物や着る物を配ったり、必死の救護活動を行いました。こうした活動には、中学校や女学校の生徒たちも加わっていました。また、体一つで逃げてきた人たちには、宗教界が手を差し伸べ、高盛座(劇場)や延養寺などに無料で宿泊させました。まさに総掛かりの救護活動が行われました。

高崎市から震災の現地東京へ派遣された救護団は、9月3日の早朝高崎駅を出発、川口駅から歩いて東京へ入りました。救護団は被害の激しかった日比谷・本郷・芝浦・築地など主に下町方面で救護活動に当たり、多くの被災者を懸命に助けました。

(石原征明)

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