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第28回市の紋章と大正期の市長

ページID:0005154 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第28回写真
大正9年正式に決まった市の紋章

高崎市の紋章が公に使われるようになったのは大正9年(1,920年)11月29日のことでした。「高崎市例規集」の告示第89号に、紋章について『「高」ノ古代文字「古代文字画像」ヲ上下二個組合セ四隅ニ先端ヲ有ス、コノ先端ハ先四ヲ意味シ「崎市」ト通ズ』とあり、寸法割合も記載されています。

この紋章について、最近の市史編さん調査の過程で、ある文書が見つかりました。紋章を考案したのは大阪市の富永藤兵衛という人で、その文書には「明治42年8月2日起案」、「明治43年7月11日付け、群馬県知事あて申請、同月から使用決議」とあります。

明治43年(1,910年)9月17日から11月15日の間、前橋を会場に1府14県連合共進会が開催されました。高崎では関連行事として、宮元町にあった中央小学校を会場に、県教育品展覧会が9月20日から11月15日まで開かれ、連日大勢の人たちでにぎわいました。

この教育品展覧会と、市の紋章の考案に至るまでの動きには、時期が近いことから何か深い関係があったようです。しかし、市紋章が正式に決定され、「例規集」に記載されたのは大正9年のことでした。

紋章を制定したときの市長は5代目の古木秀太郎で、新潟県の出身でした。大正2年から十五連隊長を務めた陸軍少尉で、新聞は「将軍市長」と称しました。大正8年から10年までの在任中、9年5月に高崎商工補習学校を開校、同11月には区長制度を復活させ、紋章を制定して大正10年1月1日から施行しました。

3代目・4代目の市長は、明治41年から大正7年まで努めた内田信保でした。佐賀県の出身で、青森警察署長から福井県南條郡長を経て、神山群馬県知事の推薦で市長に就任、長い間の懸案であった上水道や宮元町の市庁舎を完成させました。

6代目市長の土谷全次は秋田県の出身、高崎病院の元院長で、市会議員や県会議員を務めました。大正10年から14年の任期中、中央小の移転跡(今の東京電力)に大正13年4月、市立実践女学校(後の市立女子高校)を開校、翌年には実践女学校内に第二幼稚園を開園し、大正10年から下和田・竜見・並榎町などに市営住宅の建設を始めました。

大正期最後の7代目市長青木道は、大正15年から昭和5年まで在職、栃木県出身で、高崎専売局長から市長へ転身した人でした。

(森田秀策)