第29回上信電鉄の電化

たかさき100年第29回写真 大正13年に製造されたデハ4号

高崎・下仁田間を結ぶ現在の上信電鉄は、上野鉄道株式会社として創立しました。軽便鉄道と呼ばれるレール幅の狭い、小型の車輌を使用し、明治30年(1897)に開通しました。現存する私鉄の多くが幾多の統合、分離を経ているのに対し、同社は創立以来一貫して独立、存続している数少ない鉄道会社の1つです。

第一次世界大戦後の経済界の不況が一段落した時期、上野鉄道の輸送量も順調に増加し、小さな蒸気機関車が牽引する軽便鉄道では、需要に対応できなくなると予測されました。

大正10年(1921)、高崎商業会議所会頭で上野鉄道の取締役でもあった山田昌吉は、この鉄道を電化し、レールの間隔を76.2センチから国鉄と同じ106.7センチに広げる計画を推進しました。高崎水力電気株式会社との合併契約と、その後の解消などという曲折を経て、同年8月に上信電気鉄道に社名を変更し、同11月には山田昌吉が取締役社長に就任して電化とレール拡幅の準備が整えられました。

大正11年工事に着手し、橋りょう架け替えやトンネル改築などを行い、大正13年12月に全線の工事が完了しました。当時、電化とレールの拡幅を同時に行った鉄道の例は少なく、伊予鉄道、北陸鉄道、近畿日本鉄道、(天理線)のそれぞれ一部路線の事例があるだけで、30キロを超える路線を実施したのは画期的なことでした。電化方式も、まだ直流1,200ボルトが多かった時代に、現在の標準である1,500ボルトを採用。電気機関車3両と電車7両の電気部品と変電所の電気設備は、ドイツのシーメンス社から輸入しました。

レールの幅が広くなったことにより、国鉄線から貨車が直通運転できるようになり、高崎駅で貨物を積み替える必要がなくなりました。電車はボギー車と呼ばれる大型車で、東武鉄道や上毛電鉄よりも一足早い、県内では初めての登場でした。

こうして沿線の富岡、下仁田などへの輸送力が格段に上がり、地域の産業や文化の振興に貢献しました。

この後、昭和39年(1964)5月に、上信電気鉄道から上信電鉄に社名が変更されました。

一方国鉄では、大正10年に上越南線が渋川まで開通し、後に沼田、後閑と順次延長されました。また大正8年、信越線の飯塚駅が北高崎駅に改称され、大正13年には群馬八幡駅も開業しました。

(原田雅純)

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