第31回「自由画展」と「小さな星」

たかさき100年第31回写真 「小さな星」創刊号

大正期は、デモクラシーの風潮が高まり、高崎でも教育文化の面で新しい運動が展開されました。

大正8年(1919)4月、長野県神川村(現上田市)において第一回児童自由画展が開催され、その後「自由画」という新しい考え方が全国に広がっていきました。自由画というのは、臨本(習字・図画などの手本)の模写を中心としていた当時の絵画を改めて、自然や静物を自由にそして直接表現することで、画家の山本鼎が提唱したものです。

高崎では、大正10年(1921)2月20日から5日間、「群馬県児童自由画展覧会」が高崎市公会堂で開かれました。山本の思想に共鳴した井上房一郎を中心に、生澤英二・岸浩・住谷啓三郎・蝋山政道の五人が主催者となり、高崎市教育会の賛助を得て県内の小学校に呼び掛け、県内で初めて開催したのです。

山本は、この時の様子を「今迄の展覧会は多く其の土地の教育家によって発起され、働き手は皆先生であったが、今度のは少し模様がちがっていて、市の土木業者の長男で美術を研究している青年、郊外にシャボン会社を経営している青年などが発起人でもあり出資者でもあり、又働き手であった。学校の先生はたった1人しか手伝いに来なかった」と記しています。

自由画展が開かれた同じ年の7月、森銑三(南小)と栗原長治(東小)の2人の青年教師により、子供のための童謡雑誌『小さな星』が創刊されました。大正7年、鈴木三重吉が発刊した児童文芸誌『赤い鳥』の影響を受け、子どもの個性と創造性の開発を目指したもので、創刊号は8ページで子どもの童謡(自由詩)47編を掲載しました。

森は「わたしらの愛する小さい人達。びろうどのそらにまたたきする星のように清くあれ、美しくあれ。わたしらは、みなさんの純なたましいが、どこまでもすなおに、まっすぐに伸びて行くようにと、こんな雑誌を起こしました」と創刊号に記しています。月刊誌として、県内外に読者を拡大、発行部数も増加しましたが、当時の教育界に受け入れられず、大正11年3月、代用教員であった森は免職、栗原は多野郡に転任となり、4月号の第10号で廃刊となりました。森はその怒りを「馘られた教師の手記」と題して上毛新聞に7回にわたって連載した後、高崎を去り、江戸文学研究の道を歩んでいきました。

(山口聰)

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