第32回私立盲学校と聾唖学校

たかさき100年第32回写真 私立高崎聾唖学校の授業風景

目や耳が不自由な人に対する教育は、指導方法が確立されていなかったことや、一般社会の理解も低かったことなどが原因でその普及が遅れていました。視力に障害がある人に対する教育は、江戸時代から針・きゅう技術の指導があり、明治以降の高崎でも行われていました。また、医師法により針・きゅうについても資格が必要となったため、大正5年(1916)ころから高崎市の眼科医小林春造や外科医秋田聰太郎などが、鍼灸師やその弟子のための基礎医学講義を熱心に行っていました。

この実績をもとに、大正11年(1922)4月18日、鍼按組合員の寄付金により羅漢町の法輪寺に高崎鍼按学校が設立され、同13年に文部省の認可を得て「私立高崎盲学校」となりました。校長は小林春造、設立者は法輪寺住職三浦興泰で、同校は昭和2年(1927)県立移管問題が起きたときも独自の道を歩み、戦後の教育改革の後、その役目を終えて昭和32年(1957)廃校になりました。

一方、並榎町常仙寺の住職保坂元哉は、赤坂町長松寺の住職で子守学校の経営者でもあった山端息耕に勧められ、県知事の認可を得て大正11年4月10日「私立高崎聾唖学校」を設立、北小学校にあった子守学校の教室を借用して、同年5月10日開校しました。保坂は学校創立に先立ち、東京聾唖学校師範科普通科に入学し、聾唖教育の実際を学ぶほどの打ち込みようでした。この情熱のもとになったのは、法律家を志しながら父の死により東京帝国大学法科を中退せざるを得なかった自らの運命と、難聴の夫人の苦しみを共に悩んだ体験であったといわれています。

高崎聾唖学校は、保坂校長と石川進・浅井(深美)福道の2人の教員が中心となり、わずか6人の生徒で出発しました。県内初の聾唖学校であったため、指導の苦心や経営の苦労も並大抵ではありませんでした。

なお、大正8年の県議会で、「普通教育が拡充された中に我等が同胞の障害者の教育機関がないのは本県教育の欠陥である」という趣旨の県議案が満場一致で可決されましたが、その実現は高崎聾唖学校と私立桐生盲学校が合併して県立盲唖学校が誕生する昭和2年(1927)まで待たねばなりませんでした。障害者のための教育には、しばらくの間ここに登場したような篤志家の力を借りなければならなかったのです。

(八木啓次)

このページの担当

  • 広報広聴課
  • 電話:027-321-1205
  • ファクス:027-328-2726