第33回盛り上がる農民運動

たかさき100年第33回写真 日農群馬県連発足時の役員(高崎劇場前)

大正9年(1920)から10年にかけて、滝川・岩鼻・京ケ島・佐野・片岡地域などで、小作人が地主に支払う小作料の引き上げや、奨励米(模範的な小作人に支給される米)の出し渋りに対し、農民が反対する騒動が起こりました。第一世界大戦後の恐慌とそれに続く不況の中で、小作料として収穫物の約半分を地主に支払わなければならなかった農家の経営は、ますます苦しくなっていったのです。就業者の半分近くが農業に従事し、農家の約七割がなんらかの形で小作をしていた当時、これらの騒動を解決することは緊急の課題でした。

地主側はすでに、群馬郡・高崎地主会という組織を作っていましたが、農民側にはこのような組織はありませんでした。大正11年(1922)4月、全国的な組織である日本農民組合(日農)が設立されたことをきっかけに、同年12月、片岡農民組合が誕生しました。その後、市内各地で農民組合が結成され、集団の力を背景に地主と対等の立場で交渉、小作料の引き下げなどを要求しました。市内の組合の多くは、日本農民組合所属の関東同盟の傘下に入りました。

大正12年、大正デモクラシーの風潮が高まる中、日本農民組合関東同盟は並榎町の常仙寺において、農民夏期大学を開きました。当時、東京帝国大学助教授で高崎市出身の蝋山政道などを講師に招き、全国から集まった多くの組合員に小作争議の理論的根拠を学習させることを目指したのです。農民夏期大学の事務所は、嘉多町の田村栄太郎方に置かれましたが、田村は後に「上野高崎領農民強訴」などを発表し、歴史家として活躍しました。

大正13年(1924)、県内各地の農民組合を一つにまとめる、日本農民組合群馬県連合会の結成大会が高崎劇場(現在の東宝・スカラ座)で開催されました。また大正14年には、1道15県の農民組合代表を高崎劇場に集め、関東同盟の大会を開催しています。このように、当時の高崎は群馬県の農民組合運動の中心的な役割を果たしていたのです。

組合に結集した農民は、小作料の引き上げを勝ち取るなど、数々の成果を挙げました。しかし、活発な運動で全国的にも注目を集めた群馬の農民運動も、戦時体制が進む昭和8、9年を境に下降線をたどりました。農地が、地主から農民に解放されるようになるには、第二次世界大戦後の農地改革まで待たなければなりませんでした。

(清水吉二)

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