第36回戦前のメーデー

たかさき100年第36回写真 昭和2年5月2日付け上毛新聞

国際的労働者祭としてのメーデーは、明治19年(1886)8時間労働制を要求するアメリカの運動が起源です。日本における労働組合主催の本格的なメーデーは、大正9年5月2日、上野公園で行われたのが最初です。

世界的な民主主義の潮流やロシア革命の影響のもと、大正7年の米騒動をきっかけとして、社会運動が各方面で飛躍的な展開を遂げ、労働運動・労働争議が盛んになる中で、日本でもメーデーが実施されたのです。こうした背景には、都市における労働者の激増があったのです。明治42年の労働者数は244万人でしたが、大正9年には466万人、大正14年には727万人となり、同じ年の農家戸数539万戸をはるかに超えるという、社会構造の大きな変動が起こっていたのです。

こうした動向は地方都市、高崎にも波及してきました。労働組合の全国組織である日本労働総同盟傘下の関東醸造組合と関東鉄工組合の支部が高崎にも結成され、大正13年(1924)3月16日、八島町の高盛座で合同発会式が行われました。4月には藤岡・大間々の各支部とともに統一要求を会社側に提出し、ストライキを強行しました。その要求は、日給2円35銭に賃上げ、年末賞与・皆勤手当・住宅手当の支給、年間13日間の公休日などでした。

高崎での最初のメーデーは、この年の5月1日、醸造・鉄工両組合支部の主催で開かれました。『東京日日新聞』は「メーデーをやめて神様へ」の見出しで、「当日示威運動を中止して午前10時から組合員一同高崎神社に詣で記念のため写真をとった」と報じています。翌14年は「メーデー歌ヲ合唱シツツ出発、市内要所ヲ経テ高崎公園ニ到着、頼政神社ニ参拝、高崎支部万歳ヲ三唱シ午后二時半無事解散セリ」という記録が残っています。

大正15年のメーデーは参加人員約100名、標語には「1、失業防止の徹底、2、自由労働者の傷害補償、3、治安維持法の撤廃」を揚げています。この標語には、大正9年以降の慢性的な経済不況が労働者の生活・生存を危うくし、大正14年の治安維持法成立で労働運動など社会運動への制限・抑圧が強まり始めた時代背景がよく表れています。

昭和に入り、高崎のメーデーは2年、3年、5年に行われましたが、全国的には昭和11年に政府が禁止するまで16回開かれました。メーデーが復活するのは、戦後の昭和21年(1946)になってからのことでした。

(岩根承成)

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