第38回えびす講の始まり

たかさき100年第38回写真 現在のえびす講市

昭和初期の不況の中、高崎の商人たちは景気ばん回の方策を模索していました。高崎実業組合連合会(会長・高橋藤三郎)の人たちは、冷えきった消費動向に活を入れる妙案はないかと思案していました。

彼らの中から、高崎神社の境内にある大国神社を修築し、合わせて美保神社のご分霊を迎え、これを機に「恵比寿講大廉売市」をやってはどうかという提案が出されました。高崎商工会議所は全面的に賛同し、実現に向けて積極的に動きました。高崎神社の高井宮司も美保神社宮司あてに長文の書簡を送りました。神社関係者との交渉の結果、昭和4年(1929)9月27日、寺田永四郎・松島新七郎・清水浜吉の3人により、奉安されたご分霊が高崎に到着しました。そのときの様子を当時の新聞は、鳶職連を先頭に同市内芸妓連は手古舞姿で木遣音頭をうたって高崎神社へ繰り込んだ、と報じています。

こうして同年11月19日・20日の両日、「売るか、くれるか」というキャッチフレーズの下、第1回えびす講市が華やかに開かれました。この日は好天にも恵まれ、破格の値引き販売の宣伝効果もあり、市街地は大変な人出になりました。商店は装飾をこらし、町の中に余興演芸場が設けられ、買い物客でにぎわいました。こうして「えびす講市」は商都高崎の不景気を払拭するきっかけとなりました。

えびす講市は、暮れと正月を控えた11月に行われ、日用品などが驚くほど安く買えるとあって、時期的にも好都合であったことから、やがて高崎周辺のみならず、関東の名物となっていきました。昭和5年の総売上高は50万円、6年には70万円に達しました。昭和9年(1934)のえびす講市は、陸軍特別演習の都合で1か月繰り上げて10月に行われました。10年には、高崎航空普及会で「高崎号」を使って空から宣伝を行い、その範囲は埼玉・栃木などの近県にも及びました。11年には、白衣大観音の建立とも重なり、記録的な人出となりました。その後、戦争が激しくなり、戦時統制経済の下、商業そのものが立ち行かなくなり、えびす講市もまた戦争と運命を共にすることになりました。

高崎の風物詩として欠かせない存在であったえびす講市は、戦後の昭和22年(1947)、荒廃の中から復活したのです。

(高階勇輔)

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