第41回聖石橋と君ケ代橋

たかさき100年第41回写真 昭和6年に完成した聖石橋

高崎には烏・碓氷・鏑川などの大きな川が流れているため、洪水のたびに大きな橋が流されました。特に、明治43年(1910)と昭和10年(1935)には家屋や橋が流失するなどの大きな被害を受けました。

大正から昭和初期にかけて、聖石橋と君ケ代橋を永久橋(コンクリート橋)に架け替えようという運動が起きました。昭和2年の片岡村との合併を契機に、清水観音下までの道路拡幅や観音山の遊園地計画、さらに、河川改修などが重なり、架け替え運動にも拍車がかかりました。

国や県への陳情も繰り返しましたが、昭和4年8月には、岸浩助役が宇都宮の松木第十四師団長を訪れ、「大正7年の烏川増水の時、聖石橋が一部流失し、渡りかけていた高崎連隊の兵士数名が激流に押し流されている」と窮状を訴え、早急な架け替えを政府に働きかけてもらおうと、軍にも陳情しました。

翌9月には市会議員住谷常次郎ほか7人による「君ケ代橋・聖石橋両橋架替既成同盟会」を結成する動きがありました。その趣意書によると「昭和3年秋の県会で君ケ代橋36万円・聖石橋27万円の予算が議決されたものの、多額の地元負担金が必要であること。また、国の緊縮予算の影響で計画も中断している。したがって市民各位の加盟を要望する」としています。

10月には、青木市長から内務・大蔵大臣宛に陳情書を提出、その結果国の起債も決定しました。両橋の架け替えに対する市の負担金は、7年間の割賦で合計18万円、積立金からねん出することになりました。

県に対しても青木市長と職業紹介所長(岸助役)の連名で陳情を行い、採択されました。そのスローガンは、折からの不況であったため「失業地獄を救え」というものでした。

こうして高崎市民や周辺町村の永年の悲願であった両橋の架け替えが決まりました。聖石橋の永久橋への改修は、昭和5年3月に着工、23万余円の工事費をかけ、昭和6年8月14日に完成、高崎公園で開通式が行われ、高崎市と南部15か町村共催の花火大会も開かれました。

君ケ代橋は、昭和5年2月に着工、30万余円の工事費をかけ、翌6年10月に完成、11月6日に開通式が行われました。

聖石橋は、現在も当時のものが使われていますが、君ケ代橋は、昭和56年に完成した立体化に伴い架け替えられています。

(森田秀策)

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