第42回高商、甲子園準決勝に進出

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昭和13年、甲子園で活躍した高商5年生と金井茂雄投手 

夏の風物詩でもある高校野球は、今年も市内各校の活躍で盛り上がりました。この大会は、大正4年(1915)、朝日新聞社が主催した全国中等学校優勝野球大会に始まり、甲子の年にあたる大正13年(1924)に完成した甲子園球場にちなんで甲子園大会と呼ばれるようになりました。

戦前の高崎の中等学校野球は、高崎中学が、大正期に早大野球部監督の飛田忠順(穂州)の指導で急速に力をつけ、昭和2年の北関東大会で決勝戦まで進みましたが、延長11回、2対1で桐生中学に惜敗。昭和5年には高崎商業が北関東大会の決勝で、これも桐中に敗れています。

当時は高崎中学(現高崎高校)が上和田町(現一中)に、高商が台町(現警察署・合同庁舎)にありました。昭和7年、目と鼻の先にあったこの両校が県大会の決勝戦で対戦しましたが、試合中に高商の根岸捕手のすね当てが壊れ、高中の金森主将が自軍のすね当てを高商ベンチに持っていくと、観客から大きな拍手が起こったそうです。結果は11対6で高中が勝ちました。続いて宇都宮で行われた北関東大会の決勝戦で再び両校が対戦し、この時は4対2で高商が勝ち、初の甲子園出場を果たしました。

その後高商は、高橋治平治部長の下で、生徒の自主的な猛練習や小見千代三・綱島新八などOBの指導で、昭和12年(1937)・13年・15年に夏の甲子園に出場しました。特に、13年には好投手金井茂雄を擁して北海中学、坂出中学、京阪商業を連破し、この年優勝した平安中学に準決勝で7対2で敗れました。新聞は、この時の市内の様子を、「成田山前の理容店のラジオや新聞販売店の速報板に大勢の市民が集まり、電車もバスも動けなかった」と報じています。

甲子園大会は、日中戦争が激化した昭和17年に中断され、太平洋戦争が終わった翌昭和21年(1946)に再開されました。

昭和13年に甲子園に出場した高商のレギュラーのうち、金井投手は沖縄で戦死、蜂巣勝二塁手と三塁手で15年にも投手として出場し、大会随一の豪速球投手と称賛された古島誠二も戦死しました。13年出場でただ1人高崎に住んでいる九蔵町の五十嵐一郎さんは「球場が大きかったことと、観覧席が白一色で外野フライが見ずらかったことを覚えている。戦死した球友のことを思うと胸が痛む」と話しています。

(佐藤健一)

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