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第43回ブルーノ・タウトと高崎

ページID:0005264 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第43回写真
ブルーノ・タウト

都市計画と集合住宅の世界的権威で、著名な建築家であったブルーノ・タウト(1,880年から1,938年)は、エリカ夫人を伴い故国ドイツから国外逃亡(亡命)を図り、昭和8年(1,933年)5月3日、日本にやってきました。ナチスを率いたヒトラーが首相になり、親ソビエト派と見られたタウトの身に危険が迫ったからです。

タウトは、昭和11年10月までの3年半、日本に滞在していました。この3年半を滞在地別に分けると、日本の伝統を初めて見聞した京都滞在期、仙台の商工省工芸指導所嘱託を努めた仙台滞在期、高崎の少林山に住み群馬県工業試験場高崎分場嘱託(昭和11年群馬県工芸所に改組)と井上房一郎の経営する井上工房顧問を勤めた高崎滞在期の3つに分けられます。高崎での生活は、2年3カ月余りに及びました。

タウトが少林山「洗心亭」に住み始めたのは、昭和9年8月1日からでした。洗心亭がタウトの仮の住まいとなったのは、井上房一郎から相談を受けた俳人浦野芳雄の発案で、浦野が洗心亭の管理者沼賀博介と少林山達磨寺住職広瀬大蟲の了解を得て実現したのです。タウトが井上を紹介されたのは、井上の義兄唐沢俊樹が内務省警保局長を勤めていたことから、ナチスに追われ、ドイツを脱出したタウトの身の安全を考え、当時ドイツ・イタリア枢軸国との関係を強化しつつあった政府当局の手からタウトを守る、という配慮が働いていたといわれています。

県知事の月給が450円であった当時、タウトは、県から100円、そして井上との契約によって100円の収入を得ていました。タウトのデザインは、県の工業試験場で試作され、高崎周辺の町や村の無名の手工業者の手によって工夫が重ねられ、新しい工芸品が生産されました。それらの製品は井上が経営する銀座のミラテスという店に並べられ、たくさんの人たちが買い求めました。また、昭和10年の少林山の節分会でタウトは、広瀬住職の配慮により「年男」として豆まきもするなど、地域の人たちとの交流も深めていました。

昭和10年9月25日に碓氷川が大雨で氾濫を起こした時、タウトは八幡村に義捐金を出しています。

昭和11年10月8日、少林山からトルコに出発するタウトを見送るため、八幡村の全村民が駆けつけました。村民の「タウトさん万歳、奥さん万歳」の声に、タウトは「八幡村万歳、少林山万歳」と答えました。タウトは2年後に、活躍中のトルコで過労が重なり58歳で亡くなりました。

(手島仁)