第44回昭和10年の大水害と7兵士の殉職

たかさき100年第44回写真 昭和10年の水害(聖石橋から石原町方面)

昭和10年(1935)9月24日、九州宮崎付近にあった台風が突然北東に進路を変え、台風と副低気圧による前線が上信地方に豪雨をもたらしました。24・25日の2日間の降水量は、三ノ倉(倉渕村)で402.5ミリ、安中で314.3ミリに達し、豪雨は10時間余りも降り続きました。このため、烏川の上流域と碓氷川支流の九十九川流域で山津波(土石流)が発生、群馬郡で40人、碓氷郡で83人もの死者が出るという惨事が起こりました。

25日夜になると、君ケ代橋近くの烏川左岸の堤防が決壊し始めました。濁流が歌川町から赤坂町、常盤町へと流れ、十五連隊を囲んでいた土塁にまで達しました。消防組の半鐘が乱打され、地域住民は豪雨の中を非難、十五連隊では営門を開いて非難してくる人々を収容しました。

26日になると、碓氷川が乗附練兵場北側の堤防を破り、練兵場から雁行川の合流点に至るまでの広範囲にわたって、家屋・田畑・道路に浸水しました。同日の朝、市役所では並榎町の常仙寺において炊き出しを行うとともに、旧実践女学校に罹災者を収容しました。また、高崎市の水道取入口である里見村の導水管四本が流失、さらに、27日に水道使用量が激増したため、夜になって断水してしまいました。市では市内八か所に臨時給水所を設置し、トラックで飲料水を輸送しました。

後の調査によると、高崎市の家屋被害は、流失6棟、全壊3棟、半壊4棟、床上浸水818棟、床下浸水712棟という甚大なものでした。

この大水害の際、救護活動中の十五連隊兵士7人が殉職するという悲劇が起こりました。26日未明、目的地である現在の聖石町付近まで達していた第十一中隊の兵士10人を激流が襲いました。一帯は真っ暗で、碓氷川堤防の決壊を察知できなかった兵士たちは濁流にのみ込まれてしまいました。10人のうち3人は助かりましたが、神沢上等兵以下7人が殉職してしまいました。28日午後には連隊長を喪主とする連隊葬が営まれ、第十四師団長、県知事、高崎市長をはじめ、小学生や市内の関係団体など約5千人が参列し、兵士たちの死を悼みました。7人はいずれも県内出身者で、22歳から23歳の若い兵士たちでした。

なお、片岡小学校の南わきに建っている「七士殉職供養塔」には、殉職したときの様子が刻まれています。

(金井千廣)

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