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第46回白衣大観音と観光高崎

ページID:0005268 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第46回写真
本体に取り付けられる前の白衣大観音頭部(井上工業提供)

高崎市西部のなだらかな丘陵を古くから観音山とよんでいます。平安時代初期、この丘陵に建立された清水寺が本尊に千手観音をまつっていることから、こうよばれました。標高190メートルの山頂にそびえ立つ白衣大観音は、高崎のシンボルとなっています。

白衣大観音像は、市内の実業家井上保三郎により建立されました。昭和9年(1,934年)陸軍特別大演習の際、昭和天皇に単独で拝謁できた感激を機に、観光高崎の建設・十五連隊戦死者の慰霊・社会の平安などを祈願、幼い日からの観音信仰により、観音像の建立を決意しました。原型は、伊勢崎市出身の鋳金工芸家森村酉三が製作しました。「天平の如意輪観音から素材をとっているが、明治、大正、昭和の美人の顔がそれぞれ織り込んである」と語っているように、苦心の労作でした。特に、参詣者と観音の顔・目が見つめ合う角度に傾斜をもたせることに大変苦労したようです。なお、この原型を池袋のアトリエから日本橋の井上工業東京支店まで自転車で運んだのが、井上工業に入社して間もない元首相田中角栄でした。当時少林山洗心亭に滞在していたブルーノ・タウトは、観音像の建立は「キッチュ」(いかもの)と評しましたが、完成した美しい姿を見ることなく高崎を去りました。

2年余りの歳月と巨額の私費を投じ、高さ41.8メートル、重さ5,985トン、鉄筋コンクリートの日本一の大観音像が完成し、昭和11年(1,936年)10月20日、秋雨の中百数十名の僧侶による読経と高野山管長高岡隆心によって開眼供養が行われました。大観音の建立は海外へも伝えられ、翌年2月にベルギー赤十字社から、写真や建立の理由などの問い合わせがありました。

昭和12年高崎観光協会が設立され、大観音を中心とした市の観光事業は急速に発展、この年大観音を訪れた観光客は85万人に達しました。翌年、市内のデザイナー吉永得像(草玄)の描いた白衣観音像が高崎の観光ポスター第一号に選定され、観光高崎を広く全国に紹介しました。

昭和13年、保三郎は大観音像を市に寄付し、また、寺院の勧請を願っていましたが病死してしまいました。長男の房一郎が父の遺志を継ぎ、昭和16年4月別格本山高野山慈眼院を観音山に移転しました。第二次世界大戦中は、空襲の標的となるので取り壊すといううわさが流れたこともありました。

昭和25年、毎日新聞社の観光地百選に入選して以来、観光客も増加、平成9年には146万の人たちが訪れています。

(山口聰)