第48回城南球場と城南プール

たかさき100年第48回写真
高陽クラブ対高崎中学の試合(山口薫が高崎中学3年生の時に描いた絵日記から)

高崎市では大正の中ごろから野球が盛んになり、医師会をバックとした高陽クラブのほか榛名クラブなど社会人クラブが7つもあり、高崎野球協会も結成されました。東小学校や高崎中学(高崎高校)の校庭を利用していましたが、グランドの確保が困難でした。医師会の佐藤清・登兄弟や島田邦治らが中心となり、専用球場の新設を企画、市民に募金を呼びかけ、大正12年(1923)11月、現在の栄町JR東日本高崎支社北側に、広さ1ヘクタールの高崎球場を開設しました。甲子園球場完成の前年、群馬県で最初の球場でした。球場開きには、早稲田大学と高陽クラブの試合が行われ、5千人の観衆が集まりました。

高崎球場は、高陽クラブが管理・運営をしていましたが、昭和初期には木造の内野スタンドが老朽化して危険な状態になってしまいました。昭和5年の市会で「世はあげてスポーツ謳歌の時代であり大衆スポーツは野球に求むるの外途なし」として「市営野球場設置建議案」を可決しました。野球場の建設は、昭和8年に発足した高崎市体育協会が中心となり、下和田町の烏川河川敷を整地し、昭和11年(1936)10月、神宮球場をモデルとした城南球場が誕生しました。落成式では飛行機「高崎号」から白球が投下され、久保田市長の始球式で三市中等学校優勝大会が開催され、コンクリートの内野席は満員となりました。

城南プールは昭和13年7月、城南球場の隣接地に、オリンピックの水泳監督松沢一鶴の指導で造られました。50メートル7コース、日本水泳連盟の公認を受け、神宮プールに次ぐ関東屈指のプールでした。城南プールの完成は市民の大きな喜びでした。

プールが造られる以前、市民は川をせき止めた「水泳場」で泳いでいました。大正11年市教育会が聖石橋上流に「烏川水泳場」を設けましたが、洪水等によりまもなく閉鎖。また昭和4年には、上信電鉄が現在の山名町の鏑川に「山名水泳場」を開設、田中絹代などの女優を招いて宣伝し、大いに賑わいましたが、日中戦争のため閉鎖されていました。

戦争の拡大に伴い、国民の体位向上が国家の方針となり、球場に隣接して陸上競技場・相撲場・弓道場等も建設され、昭和15年4月市営総合運動場として整備されました。翌年太平洋戦争が始まり、城南球場も軍隊の倉庫として使われました。城南運動場が本格的な運動場として使われるようになったのは、戦後になってからのことでした。

(山口聰)

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