第49回高崎ハムの設立

たかさき100年第49回写真 発足当時の工場玄関前で

高崎ハムが農業者の手により、協同組合組織として食肉の加工業を始めたのは、昭和13年10月(1938)のことでした。高崎ハムの当時の正式名称は、群馬県畜肉加工組合、その後保証責任群馬畜肉加工販売利用組合連合会と称し、現在は群馬畜産加工販売農業協同組合連合会といいます。

昭和初期の大不況で荒れていた農村の更生に、農業の多角化も奨励されていました。そのような背景の中、農民たちが相諮ってつくり上げたのが『高崎ハム』でした。高崎ハムは、わが国唯一の農民資本による食肉加工メーカーとして、創業以来、終始一貫して農民の意志により運営され、業界内の全国有数の企業にも劣らない組織として成長してきました。

立案計画を任されていた群馬郡農会長の竹腰徳蔵は、早くから畜産加工を生産者農民自らの協同組織により設置運営したいと考えていました。竹腰は、副会長の大山福次、倉賀野町の渡辺覚哉を先進工場に派遣して実地調査を行った結果、創業に当たっては「問題は技術と経営である」という判断を下しました。そこで竹腰らは、賀川豊彦経営の御殿場農民福音学校にいた勝俣喜六を技術者として招き、経営面においては大山福次を配することで、製造技術と製品販売についての問題を解決しました。

昭和12年10月、高崎市ほか34か町村の産業組合や農会が集まり、創立総会が開催されました。高崎市は、末広町の1反3畝の土地を無償貸与する代わりに、製品名を「高崎ハム」とし信越線の乗客から見えるように、工場の屋根に「高崎ハム」と大書して欲しいという申し出をしました。ちなみに、草創期の関係者は、食料品の加工販売という業務の性格上、協同組合よりも「高崎ハム」の銘柄を全面に出すことで意見が一致していました。

戦時中は、飼料統制や農民の出征、軍需工場への徴用などにより農業従事者が減少し、生産の落ち込みに拍車をかけました。

また、戦争末期には、航空機材の接着剤に血粉が使われましたが、昭和19年高崎ハムは、その協力工場となり苦境を乗り越えることができました。これは、陸軍糧秣本廠が極秘に進めていたもので、血液を遠心噴霧分離装置によって粉化乾燥し、接着剤に利用するというものでした。

戦後高崎ハムは、生活の多様化、高度化を背景に、食肉加工の需要が伸びる中、地場産業としての地歩を拓いていったのです。

(高階勇輔)

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