第50回高崎工業学校創立と商業学校の廃校

たかさき100年第50回写真 高崎工業学校開校当初の実習風景

大正12年(1923)、中央小学校の移転後の跡地に実践女学校と工業学校のどちらを先に建設するかという問題が起こりましたが、結局、翌年4月に実践女学校が設立されました。大正15年、市議会では商業会議所の陳情を受け、工業学校設立を可決しましたが、不況のため学校設立の寄付が集まらず、計画は立ち消え状態になっていました。

日中戦争が始まり軍需産業が盛んになると、文部省が昭和13年3月、軍需産業関連学科の新設・増設に補助金を支出することを決定したため、全国的に工業学校の新増設が多くなりました。群馬県会でもその前年に、「伊勢崎・桐生・前橋三工業学校充実に関する建議」を全会一致で可決しています。

高崎市は、昭和13年10月の臨時市議会で、工業学校を誘致するため敷地1万坪の購入と13、14年度継続支出20万7千5百円の予算を可決しました。また、高崎市が商業都市から商工業都市への転換を図ったことにより、旧高崎藩主の遠縁にあたる大河内正敏が主宰する理研コンツェルンなどの軍需工場が駅東側に続々と進出することになりました。

昭和13年、土屋県知事が三工業学校のうち伊勢崎の整備充実だけを予定し、高崎の工業学校の新設案を提出したため、県会は大荒れになりました。議員からは、既設学校を冷遇しているという不満や理研コンツェルンとの関係をただす発言などもありましたが、県知事が既設の工業学校の充実を約束して決着がつき、14年に伊勢崎工業学校に機械科・応用科学科を、前橋工業学校に金属工業科を設置しました。

高崎工業学校は、昭和15年2月大阪の淀川工業学校機械科長であった田原栄を校長として招き、中央小に仮事務所を置いて発足。機械・電気・応用化学科を設置し、重化学工業の技術教育を実施する目的で、同年4月江木町に開校しました。

戦争が拡大すると、軍需産業とは縁の薄い商業教育が軽視され、昭和18年10月の閣議決定「教育ニ関スル戦時非常措置」にしたがって、翌年4月には、中等学校などの修業年限1年短縮と商業学校廃止が決められました。高商の2・3年生は高工へ転校、4・5年生は工業学校の分校となった台町にとどまりましたが、学徒通年動員が始まり、4月末には現在の大泉町にあった中島飛行機小泉製作所で働くことになりました。

高崎商業学校は戦後、同窓生や市民の運動により、昭和21年に復活しました。

(八木啓次)

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