第51回女性の社会進出と最初の女医

たかさき100年第51回写真 高崎初の女医、中澤於君(下田尾澄子氏提供)

昭和6年(1931)5月、高崎市役所に初めて女性職員が採用されました。「市役所に明るさを添え、来所者に優しい感じを与へる事になった」と当時の新聞は報じています。昭和初期、高崎では女性の社会進出が盛んになり、従来の看護婦・教師・電話交換手・タイピストなどのほか、医師・薬剤師・自動車運転手などの新しい分野で女性が活躍するようになりました。長野堰組合では女性にも選挙権を認めたり、昭和4年に結成された洋画団体「白樹社」で活動する女性、メーデーに参加する女性など、多彩な面で活動が目立ってきました。

女性の社会進出に伴い、活動に適した服装として、高崎郵便局では昭和4年和服を廃止、機能的な洋服に改めました。こうした時勢を反映し、昭和3年に実践女学校(市立実践女学校は大正13年に開校し、その後市立高等女学校と改称、また学制改革により市立女子高等学校となり、平成6年4月1日高崎経済大学附属高等学校の開校により同年3月31日廃校)、翌4年に高崎高等女学校(現高崎女子高校)がそれぞれセーラー服を制服としました。

このような社会情勢の中、昭和3年(1928)高崎市内で初めての女医として、中澤於君が開業しました。於君は明治37年、石田清次郎・ちいの長女として砂賀町に生まれ、少女期から病弱な弟を看護したことから医師になる決意をしました。高女から東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)に進学。当時の東京女子医学専門学校には、高女の先輩戸田クニが女性の医学研究の先駆者として活躍していて、強い励みとなりました。大正15年に卒業し、東大附属病院で研修後、高崎に帰り、24歳のとき八島町に石田眼科医院を開院しました。昭和4年、中澤賛と結婚して中澤に改姓しましたが、医院名はそのままでした。

高崎では、明治以来トラコーマなどの眼病に悩む患者が多く、診療に追われる毎日でした。いつも優しく温かく『医は仁術なり』の博愛の心で診療にあたり、生活上の相談にも気安く応じました。「愛と平和、自然に率直に」が信条で、家庭では3男3女の母として、また医師としての生活も両立させました。戦後、仲間と市内の女医の親睦団体として高崎女医会を組織、初代会長として後進の指導育成にも尽力しました。昭和52年、旅行先の長野県上高地で急逝しました。

高崎で初めての女性薬剤師は、市内新町の鈴木てうでした。てうは、明治32年(1899)に生まれ、高女から日本女子薬学校(現昭和薬科大学)を卒業、昭和4年薬剤師となり、父の経営するミカワヤ薬局を継承、昭和62年逝去しました。昭和初期は、経済不況の暗い時代でしたが、他面、女性活動の胎動期でもありました。

(山口聰)

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