第53回軍需工場の誘致

たかさき100年第53回写真 設立当初の理研製機高崎工場

昭和12年(1937)に日中戦争が始まると、軍需産業が急速に勃興してきました。高崎市は、商業都市から商工業都市への脱皮を図るため、これまでの都市計画を変更し、高崎駅東側の東三条通り沿いの地域を新たな工業地域として位置づけ、積極的に工場を誘致することにしました。

高崎商工会議所会頭の山田昌吉は、高崎駅東側の東三条通りに面して空地であった東信電気所有の化学工場予定地を工業団地に当てようとしました。山田は久保田宗太郎高崎市長と協力し、旧高崎藩主大河内氏同族の大河内正敏が主宰する理研コンツェルンに働きかけ、理研製機、理研電磁器、理研水力機械、理研合成樹脂ほかの工場誘致を行いました。これが高崎における最初の工場誘致でしたが、その後の商工業都市としての発展の基礎となりました。これと前後して高崎航空器材、小島電気製鋼、小島機械製作所、昭和鉄合金高崎工場などが新設され、在来の高崎板紙、小島鉄工所などと工業生産の主軸となっていきました。なお、地元工場として、天野定次郎を社長に昭和電気製鋼が昭和14年に創立、翌年12月に操業を始めています。

昭和13年、理研の系列工場で大量の若年労働者の募集が行われました。理研関連の工場の設立状況を見ると、理研製鋼は昭和13年に高崎工場の建設に着手しました。理研電磁器は同年新潟県柿崎町にあった工場を高崎に誘致、操業を開始しました。理研水力機械も同年十月、理研前橋青年学校から最初の工員を採用して高崎工場の操業を開始しました。その後、理研水力機械は品川工場からの航空機部品部門の移転に伴い、飛行機部品の専門工場としての性格を強めていきました。理研空気機械は昭和14年に高崎工場を竣工、また理研合成樹脂は、同年7月に竣工しました。

戦時下において、市内の織物製糸工場などは軍需工場の協力工場、下請け工場になりました。昭和14年7月には、労務動員計画の下、国民徴用令が施行されました。この国民徴用令書は、白い紙だったので「白紙召集令状」ともいわれ、不要不急となった商店主、店員などは徴用工として工場に動員されていきました。

昭和17年4月には「小売業整備ニ関スル件」が閣議決定され、商業者の転廃業は決定的となりました。昭和18年、国民の総力を戦力増強に結集して、これを有効に発揮するため、高崎商工会議所も群馬県商工経済会に統合(山田昌吉会頭)されることになりました。

(高階勇輔)

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