第54回「欲しがりません勝つまでは」

たかさき100年第54回写真
出征兵士と同じようにたすきをかけられ供出される善念寺の阿弥陀如来像

昭和12年(1937)、日中戦争が始まったころは、洋食屋でもビゼーの「カルメン」が流され、「東京行進曲」「二人は若い」なども流行していましたが、思想弾圧や2・26事件も起こった直後でした。高崎駅前などで出征する兵士の安泰を祈願し、千人針を縫う姿も見られました。

昭和16年の「えびす講」は売り出しが中止になりましたが、市民はスフ(人造絹糸)の鉢巻で山車を引きました。そのお祭り気分が抜けきらない12月8日、市民は日米開戦の事実を知ったのです。

戦争が長期化すると物資不足が深刻になり、衣料品・米・砂糖・酒・魚・野菜・醤油などの生活必需品が次々と配給制になりました。公定価格では生活物資が買えず、闇市や物々交換も行われ、客が米を持参して宿泊する旅館も出てきました。

男性が出征したため働き手がいなくなり、工場・農村に中学生や女学生までが動員されました。商業に従事していた人たちは、徴用工、女子挺身隊員として国民服やモンペ姿で軍需工場で働き、市民こぞって「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵」「滅私奉公」などを合い言葉に辛抱したのです。

日米開戦直後の昭和17年1月になると、連雀町商店街がネオンの鉄塔を兵器の原料として供出したのをはじめ、門柱や手すり、家庭の火鉢まで供出させられました。供出しない者は、国家総動員法により10年以下の懲役か500円以下の罰金と定められていました。善念寺(元紺屋町)の境内にあったカナブツ様(阿弥陀如来像)も住職や町内の人々に見送られ、白いたすきをかけられて供出されました。昭和18年には銅像の献納も決まり、初代市長矢島八郎の像も献納されました。

戦争末期には食糧不足がますます深刻になり、米の代用食に、いも・うどんが配給になりましたが、それでも足らず、校庭や町中の空き地、烏川の河川敷などが畑になりました。また、市がサツマイモの苗を配って、食糧増産に努めたこともありました。

太田の軍需工場や堤ケ岡飛行場(群馬町)への空襲が激しくなった昭和19年、昭和20年には農村部へ疎開する市民も増え、火災対策上、商店の看板は取り外されました。また、延焼を防ぐため強制疎開させられた家屋も取り壊されました。昭和20年8月14日夜半に空襲を受け、電車通りにあった旧高島屋前(連雀町)の木製の電柱は、立ったまま燃えていました。

(佐藤幸雄)

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