第55回防空訓練と強制疎開

たかさき100年第55回写真 九蔵町の防空訓練(伊藤富太郎氏撮影)

日中戦争が始まってから4年目の昭和15年(1940)、政党は全て解散し、こぞって戦争に協力する大政翼賛会が結成されました。その地方組織の一環として高崎にも、市常会→町内会→隣保班(隣組)という上意下達の仕組みができ、およそ10戸で1つの隣組を構成しました。隣組は、生活を切り詰めて祭祀慶弔、防空訓練、納税、配給、衛生などを協同で行う組織とされ、高崎市はこれに、体位向上と道路愛護の2つを独自の実践事項として加えました。町内によっては、水と燃料を節約するため、数軒が交代で風呂を沸かし、お互いに利用し合いました。そのほか、戦時国債の割り当てや金属・布切れの回収、また乾燥させた茶殻まで軍馬の飼料として供出しました。

防空訓練が始まった昭和13年、凱旋道路と呼ばれていた駅前通りに防火用水や砂置場が設けられ、その後、全ての町内にも設置されていきました。夜間訓練では、室内の光が外に洩れないように、電灯に黒い布や紙をかける「灯火管制」が行われました。15年7月の灯火管制の訓練中下小鳥で、かさのない電球に新聞紙を直接かけたため失火し、3戸9棟が全焼する事故が起きました。

防空壕は市内各所に掘られました。最大のものは、昭和19年に高崎公園の崖につくられた横穴式防空壕で、300人を収容できました。このころになると、早朝4時ごろ突然サイレンが鳴り、防空頭巾をかぶった市民が一斉に飛び出し、警防団員や隣組長の指揮で待避・消火・救護と実戦さながらの訓練が行われました。

太平洋戦争の劣勢が明らかになった昭和18年、都市疎開実施要項が発表されました。それを受けて、官庁疎開の第一陣として19年1月、東京鉱山監督局が九蔵町の旧高崎商工会議所に移転してきました。官舎には、18年に解散させられたキリスト教高崎南教会の牧師館があてられました。また、親戚や知人を頼って高崎に疎開してきた人たちは、終戦の年の3月までに1,500世帯、3,730人ほどに達しました。

昭和20年(1945)には、高崎にも空襲の危険が迫り、市街地から周辺農村部へ疎開しなければならなくなりました。特に、駅・市役所・郵便局など、都市の中枢を火災から守るため道路を拡幅し防火帯を造りました。拡幅のため強制疎開が実施され、郵便局(現市営中央駐車場)周辺で、家屋の取り壊しが行われました。現在の「さやモール」・「柳通り」も強制疎開の時に拡張されたものです。

(佐藤健一)

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