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第57回第38部隊跡地への米軍進駐

ページID:0005293 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第57回写真
市当局者とアメリカ軍将校との懇親会 提供/原田キヨさん

昭和20年(1,945年)8月15日の終戦時、高崎には高松町の東部三八部隊のほか、京目町の機関砲(第二百師団)や納部隊(第八一師団)などが市内の官公庁や学校などに駐留していました。

東部三八部隊というのは通称で、正式には東部軍管区宇都宮師管区歩兵第三補充隊といいました。長く高崎にあった十五連隊や一一五連隊は、すでに中国から南方戦線へ送られていました。東部三八部隊は、2千人ほどの編成でしたが、本土決戦を控えて独立混成第五旅団などをはじめ、他部隊からの兵員の派遣や緊急動員が行われたため、4千人近くに増えていました。

終戦の日、東部三八部隊では昭和天皇の詔勅を聞いて、自決するという将校や徹底抗戦を主張して市内を行進した士官たちもいましたが、その後は大きな混乱もなく、戦後処理に入りました。

米軍の進駐を予想して、部隊内で書類を焼却したり、軍馬や軍用犬の払い下げ、米軍に提出する武器や資材リストの作成などを行いました。兵員の復員は、これらの作業が一段落した8月末から始まりました。

9月末になると、高崎でも連絡業務に来る米軍兵士の姿を見かけるようになりましたが、米占領軍の本格的な高松町内への進駐は、10月になってからでした。9月25日から旧熊谷飛行学校に進駐していた米陸軍九七師団(7千人)は、10月10日に旧前橋陸軍予備仕官学校(榛東村)へ2千人、太田の中島飛行機工場へ千人を進駐させました。翌11日には、高崎の旧東部三八部隊兵舎に200人の米兵が進駐、以後10万坪の同部隊跡地は米軍の管理下に置かれました。

高崎市では職員が英会話を習ったり、米軍将校との懇親会などを開きました。また、高島屋ストアに米兵向けのみやげ品を陳列するなど種々の進駐軍対策に努め、米軍の進駐は大きなトラブルもなく進みました。

市民は片言の英語を使い、日本人形や扇子などと、アメリカ製の煙草やチョコレートなどを米兵と交換し合いました。また、食糧難の当時、米軍政部の許可を得て、約1万2千坪の営庭を400戸余りの市民が開墾し、麦や野菜を作っていました。

昭和22年(1,947年)に、部隊跡地の管理が米軍政部から大蔵省東京財務局へ移管されると、米兵とともに市民農場も徐々に姿を消し、高松町は学校や官公庁の街に変わっていきました。

(清水吉二)