第58回婦人参政権と最上英子

たかさき100年第58回写真 保守合同祝賀会での最上英子(左 緒方竹虎、右 鳩山一郎) 最上進氏提供

わが国において、女性が参政権を初めて行使したのは、昭和21年(1946)4月10日に行われた戦後第1回の衆議院議員選挙(総選挙)です。群馬県では、第1回と2回の総選挙に最上英子(1902~1966)が連続して当選しました。第1回総選挙には全国で79人の女性が立候補し、39人が当選しましたが、第2回の当選者は15人に激減しました。

英子は長野県に生まれ、大正9年(1910)19歳のとき、日刊新聞『万朝報』の政治部長をしていた群馬県出身の最上政三と結婚しました。政三は昭和5年の総選挙に群馬2区(高崎市を中心とした利根川以西が選挙区で定数4)で当選し、4期連続して衆議院議員を務めました。英子は政三のために応援演説に立ちましたが、当時女性の演説は珍しく、英子の演説が人気を呼んで、あまりの聴衆の多さに高崎市内の劇場「高盛座」の床が抜け落ちてしまう事件も起こりました。

英子の政界進出は、政三が翼賛議員として公職追放されたため、夫の身代わりとして出馬したのですが、公職追放解除後も政治家の道を進みました。衆議院に落選しましたが、参議院群馬地方区から2回連続当選し、岸信介改造内閣では郵政政務次官になりました。郵政大臣は田中角栄でした。

英子の業績は、一般に簡易郵便局を多数新設したこと(高崎市内では、並榎・浜川・岩押の3局)や売春防止法の成立に尽力したことで知られていますが、憲政史における最大の功績は、金権選挙を批判して理想(公明)選挙を貫いたことでした。英子の武器は演説以外になく、市内石原町の自宅にある土蔵の陰で、毎晩声が出なくなるまで演説の稽古をしたといいます。立会演説では他候補を圧する熱弁でした。

『…婦人の議員は段々減ってきました。男子に伍して戦うことは女性の身として容易なことではないのです。今回の選挙で自民党では婦人の公認候補は地方区では私1人です。皇太子殿下も上州の女性美智子さんをお選びになったではではありませんか。選挙区の皆さま、上州の面目にかけても、この1人の婦人候補「最上英子」を落とさないでください。そしてこの次はこの最上を大臣にしてください…』。これは、選挙史に残る名演説の一節です。

最上英子は政界引退1年後の昭和41年心筋梗塞のため、64歳で病没しました。

(手島 仁)

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