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第62回「群馬新報」と「高崎市民新聞」

ページID:0005305 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第62回写真
創刊当時の高崎市民新聞社(映画「高崎での話」より)

敗戦後の混乱が続く昭和22年3月21日、夕刊の日刊紙「群馬新報」が九蔵町の群馬新報社から創刊されました。戦争中の言論統制に代わって言論の自由を得て、真実を伝える日刊新聞を高崎市民は手にしたのです。社長は久保田栄次郎、編集・発行人は吉本菊次から途中で岡田稲夫に代わりました。タブロイド判2ページの夕刊紙でしたが、紙不足やインフレのため昭和24年10月、第355号で廃刊になりました。

当時、連合国軍最高司令官の歴史部署にいたプランゲ博士は、占領軍が検閲のため日本国内で収集したあらゆる出版物をアメリカに持ち帰り、保存していました。その中に「群馬新報」もあり、現在では東京の国立国会図書館(プランゲ文庫)でマイクロフィルム化されたものを見ることができます。

昭和25年4月28日、連合国軍総司令部(GHQ)新聞課長のインボデン少佐が高崎で講演し、民主主義と地域社会の発展には郷土新聞の発行が欠かせないと説きました。「群馬新報」廃刊のため悪質な新聞の横行に困っていた高崎市民は、この講演をきっかけに立ち上がり、株主100人、資本金20万円の株式会社「高崎市民新聞社」を設立しました。同年6月15日、「群馬新報」を引き継ぐ形で「高崎市民新聞」が創刊されました。社長には戦前から高崎の社会教育に大きな貢献をしてきた桜井伊兵衛が就任し、「群馬新報」にもかかわった元読売新聞社員の岡田稲夫が編集長になりました。九蔵町にあった商工会議所の2階に編集室を置き、毎週土曜日発行の週間新聞としてスタートしました。桜井社長自らもカメラマンとして活躍、岡田以下3人の記者は、高崎の隅々を歩き回り、足でかせいだ記事で紙面を埋めました。

毎号身近な人物を取り上げ、市民生活に密着した記事を掲載した同紙は、市民の間に浸透して行きました。GHQ新聞課でも同紙を全国的な成功例として賞賛し、1年間の歳月と200万円近い経費をかけて「高崎市民新聞」の活躍を描いた映画「高崎での話」を制作しました。昭和26年9月に全国上映され大きな反響を呼び、高崎の電気館で上映したときには大勢の市民がつめかけました。

現在も発行されている「高崎市民新聞」は、高崎市が市制施行100周年を迎える来年、創刊50年の節目となります。戦後高崎の歴史の大半を伝えてきた同紙は、高崎市民にとってかけがえのない財産といえるのではないでしょうか。

(清水吉二)