第66回高崎子ども博からカッパピアへ

たかさき100年第66回写真
子ども博会場に設けられた歓迎アーチ(現在のカッパピア付近) 

高崎市は、第二次世界大戦後の復興を目指した新高崎建設の一環として、昭和27年観音山一帯の上ノ山・新山・金沢山にまたがる広大な敷地を会場に「新日本高崎子ども博覧会」を開催しました。

次代を担う子どもの福祉を増進し、文化的素養を育てるとともに、観音山公園一帯の観光地に特色を持たせ、観光高崎を全国に宣伝することが大きな目的でした。また、この年には高崎線の全面電化やサンフランシスコ平和条約が発効したこともあり、これも記念して開催したのです。

子ども博覧会の企画は、日本子ども博覧会の創設者で、小田原市・人吉市などでも開催を手がけた、三上隆彦氏に依頼しました。

博覧会の開催に当たって、当時の小島市長は「この新しい催しに対し、世界中から熱烈な声援と出品をいただいております。タイ国から贈られた人気者の象(高子と命名)をはじめ、鹿、猿、熊などの動物たちもとても元気で、日本中からよい子たちが子ども博覧会に来てくれるのを待ちわびています。」と話しています。

高崎駅前には、子どもが両手を広げた形の歓迎アーチが設けられ、会場までの道路にはボンボリが立ち並び、歓迎ムードがあふれていました。丘陵を切り開いて造成した会場には、豆自動車・お猿の列車・メリーゴーランド・飛行塔・ボブスレッド・動物園など17施設のほか、平和塔前の広場や観音様下の広場などを利用してアメリカ館・地球館・産業館・教育文化館・テレビジョン館など12の臨時施設も設けられました。

博覧会が開かれた当時は、食糧事情も良くなり、親子連れでレジャーを楽しむという余裕も生まれてきたころで、時代に合った博覧会となりました。

4月1日から5月20日まで、50日間にわたる会期中の入場者は、予想をはるかに上回る50万人を突破、収入も4,200万円余りとなり大盛況のうちに幕を閉じました。

博覧会終了後、会場内の一部の建物や遊器具を使い、市営遊園地として営業していました。その後、昭和36年に上信電鉄が経営を引き継ぎ、施設を整備して「高崎フェアリーランド」として開園しました。

昭和44年、「流れるプール」を建設した際に愛称を募集し、その中から選ばれたカッパピア(カッパ・ユートピア)が一般に使われるようになりました。

(鈴木重行)

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