第69回小島市長と住谷市長

たかさき100年第回写真1

第16~19代市長 住谷啓三郎

たかさき100年第回写真2

第14・15代市長 小島弘一

明治33(1900)年の市制施行以来、高崎市長は、政府が選ぶいわゆる「官選」により決められていました。選挙によって市民が直接市長を選べるようになったのは、第二次世界大戦後の昭和22(1947)年4月5日に行われた選挙からでした。このときの市長選挙には、小島弘一、住谷啓三郎、小林儀緑、堀口芳雄が立候補、小島が13,220票を獲得し、450票という小差で住谷を破り当選しました。

小島弘一は、商業会議所会頭を務めた市内の実業家小島弥平の孫で、旧制高崎中学、横浜高等商業を卒業後現在の高崎製紙に勤務、昭和11年には小島機械製作所の社長に就任、昭和22年に36歳の若さで市長となり、2期8年間在職しました。

昭和22年には市庁舎(宮元町)、昭和25年には仮庁舎(本町の公会堂)を火災により焼失していたため、小島は新しい市庁舎を昭和29年高松町に完成させました。また、昭和22年に発足した新制中学校を軌道に乗せ、昭和27年には新日本子ども博覧会の成功や高崎短期大学(現高崎経済大学)の創設など、「新しい時代には若い力で」と「決断即決主義」をモットーに市政を進めました。

住谷啓三郎は、昭和30年の市長選で32,136票を獲得し、最上政三に3,970票の差をつけ初当選しました。以後、4期16年間にわたり市長を勤めましたが、それまでの歴代市長13人の中で最も長い期間市長の座にありました。住谷は、田町の荒物問屋に生まれ、旧制高崎中学から慶応、早稲田を卒業、少壮実業家として高崎セロファン工場を創立しました。昭和7年、わずか34歳で市議会議員に当選、翌年には市議会議長になりました。

市長在任中は、高度成長期に当たり、音楽センターの建設、高崎短期大学の4年制昇格・上並榎町への移転、倉賀野・八幡・群南・将軍塚など工業団地の造成、全国では第一号といわれる問屋団地の完成、農大二高・日本原子力研究所・国立コロニーなどの誘致、大類・南八幡・岩鼻・倉賀野・群南の合併など、高崎市の躍進と充実に努めました。また、昭和38年に群馬フィルハーモニーオーケストラが群馬交響楽団と改称した際に、井上房一郎から理事長を引き継ぎました。

昭和46年、5期連続当選を目指して立候補しましたが、沼賀健二に破れ引退しました。

(森田 秀策)

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