第71回農大二校と中央高校の開校

たかさき100年第71回写真 創立3年で甲子園に出場した農二野球部

太平洋戦争後のベビーブーム期に生まれた人たちが、昭和37~39年に高校の入学年齢に達し、高校入学は狭き門となりました。

高崎市では、昭和36年に小中学校のPTA・市・市議会などが結束し、公立高校を1校増設する運動を展開しました。しかし、国・県からの財政面の援助が得られず、運動は暗礁に乗り上げてしまいました。

そのころ、静岡県藤枝市で東京農業大学の付属高校を誘致しようとしていました。これを知った住谷市長は同年8月、高崎に誘致する運動に乗り出しました。高崎に在住し、東京農大の監事であった矢野次男が市・県と大学の間のパイプ役を熱心に努め、同年12月、大学側は高崎に高校を設置することを決定しました。

昭和37年4月、東京農業大学第二高等学校は、高松町の旧陸軍兵舎を仮校舎として開校、翌年には石原町の現在地に移転しました。初代校長は農大理事長の内藤敬が兼務しましたが、実際には第2代校長を務めた常谷幸雄が校長代理として学校運営に当たりました。開校に当たって内藤は、「進学教育に重点を置く普通高校だが、特に理科・体育には力を入れたい」と述べています。

生徒募集は順調で、昭和39年度には男子19、女子13学級の大規模校になりました。同年秋には野球部が関東地区高校野球大会で優勝し、翌年3月の全国高等学校選抜野球大会に出場しました。

農大二高は開校しましたが、高崎や前橋の高校には近隣市町村から生徒が殺到し、市内在住者の入学難は深刻な状況でした。両市の強い要望を受けた県は、普通科男女共学の県立中央高等学校を両市の中間に新設することを決め、校地も未定のまま昭和38年4月、旧新高尾中学校を仮校舎として開校しました。初代校長の市川清は、高崎・前橋の境界近くに校地を求めて自転車で奔走し、ようやく8月末に高崎市新保田中町と前橋市川曲町にまたがる現在地に決定しました。

昭和40年3月の第1回卒業式は、未完成の体育館で行われ、校庭はさながら荒野のような状態でした。市川は劣悪な環境で学ぶ生徒たちに「人生は無限の広野である。我々は荒野を開拓する清新で逞しい心、すなわちフロンティア・スピリットを持たねばならぬ」と勇気づけました。県下唯一の理数科が増設されたのは、昭和43年のことでした。

(佐藤 健一)

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