第73回問屋町の誕生

たかさき100年第73回写真 昭和43年当時の問屋町

高崎は、田町・九蔵町など旧中山道沿いを中心に、市内各地に600余りの卸売業者(問屋)がひしめき、関東甲信越一帯を商圏とする物資の集散地として栄えてきました。しかし、日本経済の高度成長が本格化する昭和30年代の後半、市内の自動車交通量が増え、駐車禁止の標識があちこちに目立つようになりました。しかも、市内には狭い道路が多く、自動車交通時代になっても、取引先の小売業者が乗り入れるトラックだけでなく、市内卸売業者の車も身動きがとれなくなり、商都としての発展に大きな障害となっていました。

この問題の解決を目指し、高崎商工会議所卸商業部会が昭和37年5月、問屋団地造成に乗り出しました。同年12月に団地造成計画の具体案を決定、翌38年1月、吉野五郎氏を理事長として問屋団地の母体となる「高崎卸商社街協同組合」の創立総会を150社余りの賛同者を集めて開催しました。

敷地については、一時上佐野地区も候補に上がりましたが、昭和38年6月、高前バイパス(昭和41年開通)沿いの浜尻土地区画整理事業区内(大八木町・飯塚町の一部を含む)に決定し、用地買収に取りかかりました。同年11月には中小企業庁の全国初の第一次指定団地となり、年末には33万平方メートル余りの用地買収もほとんど終了しました。当時は、地価が高騰する前であったため、用地買収費は造成費も含めて8億円、展示会館・食堂など共同建物分が1億5千万円、組合員の店舗・倉庫・駐車場分が17億5千万円、総額27億円の大事業でした。

卸商社街協同組合は、繊維関係を第1部会、食料品関係を第2部会、それ以外を第3部会とし、部会ごとに参加業者をまとめた区画割りも、吉野理事長などの努力により解決し、昭和40年末には群馬中央園芸(株)が第1号商社として進出・落成しました。その後、業者の進出が続き昭和42年までに、150社余りの組合員のほとんどが進出しました。また、行政区としての「問屋町」も正式に誕生し、同年11月に完成祝賀会を盛大に催しました。

流通の近代化に適応して売り上げを大幅に伸ばした問屋団地の成功は、全国的に話題を呼び、他県からの視察も相次ぎ、高等学校の教科書にも写真入りで紹介されました。その後、第2次の敷地拡張も行われ、現在に至っています。

(清水 吉二)

このページの担当

  • 広報広聴課
  • 電話:027-321-1205
  • ファクス:027-328-2726