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第78回観音山古墳と日高遺跡

ページID:0005325 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第78回写真
空から見た観音山古墳

群馬県は、全国的に古墳の多い地域として有名です。昭和10年(1,935年)の「上毛古墳綜覧」には、現在の高崎市域内に1,239基の古墳が登録されていましたが、開発などによって平成11年現在、253基まで激減しています。

昭和42年(1,967年)から43年にかけて県教育委員会は、高崎市や明治大学の協力を得て、市内綿貫町の観音山古墳で緊急の発掘調査を行いました。付近の農家の人たちが桑園を造成する計画があったため事前調査を行ったのです。ところが調査が進むにつれ、石室の大きな天井石が落下していて入り口をふさいでいたため、盗掘を免れた数多くの古代の副葬品がそっくり発見されたのです。当時の新聞は「国宝級の発見」と大きく報じました。

昭和48年に国史跡に指定されたあと、再調査や保存修理を行った結果、二重堀をもった前方後円墳で、榛名山の角閃石安山岩を使用した横穴式石室であり、墳丘上には人物や家型埴輪、円筒埴輪などを計画的に配置していたことがわかりました。

石室内からは、百済(韓国)の武寧王陵出土と同型の鏡や中国の北斉庫狄廻洛墓出土と類似の銅製水瓶をはじめ、異形かぶと、金銅製鈴付大帯、金銅製馬具など6世紀代の工芸技術の発達と、アジア大陸との文化交流を示す副葬品(昭和57年国の重要文化財指定)が大量に発見され関係者を驚かせました。

平成11年秋、県立歴史博物館において、中国の庫狄廻洛墓と韓国の武寧王陵の出土品が公開され、観音山古墳出土品との関係が改めて注目されました。

日高遺跡(日高町)は、昭和52年から53年にかけて、関越道建設に伴う県教育委員会の発掘調査によって発見され、弥生時代から戦国時代にかけての水田・墓地・住居・館跡などが発掘されました。

特に、静岡市の登呂遺跡よりも北の地域における、本格的な水田の稲作の様子を示す遺跡として、全国的に注目を集めました。遺跡保存のため関越道は設計を変更、水田遺構部分は高架とし、平成元年に国の史跡として指定されました。その後、市教育委員会の継続調査によって、北側から流れてくる小河川や水路、住居地域の様子なども次第に分かってきており、史跡公園としての今後の整備計画について、専門の研究者や行政関係者などで組織する委員会で協議しています。

(森田 秀策)