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奥平城跡

ページID:0002111 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

​高崎市にある指定文化財 市指定

奥平城跡の画像
奥平城跡

奥平城は、鏑川北に広がる丘陵地の中を貫流する申田(さるた)川の岸に広がる幅約700メートル、長さ2.5キロメートル程の平地の中央に位置する。城は西の丘陵に接し両側が川に囲まれた地に造られている。城の東北側の申田川を渡った地域は武家の居住区と考えられる九台(くだい)で、屋敷跡が多い。ここは周囲を申田川と宝性寺境の空堀、背後の丘陵に囲まれている。その内の南北80メートル、東西200メートルが城となっている。上下2段からなり、東部が数メートル低い。追手は両者の間にあって北面に開き、西の外郭を武道原という。二つの川の合流点を今も止め場と呼ぶのはここを堰き止めて水を溜め要塞とした証拠である。一段下がった南東部は腰巻、大手は東方にあり南より登って本丸に入る。本丸西面に搦手の食い違い土塁があった。水の手は城内に川久保城谷の井戸が一つ、九台の北方に二つ井(井戸谷)南の桜沢を渡ったあたりに銀(しろがね)の井があった。周囲には溜め池も多い。奥平城は奥平氏の居城であり、奥平氏は鎌倉初期氏行が甘楽郡司となってから代々ここに住み、系譜が残されている。初代から七代まで奥平に住み、八代定俊は天授年間(南朝年号1375~1380)三河国作手に移った。その後も縁者がこの地に残ったが永禄6年(1563)武田信玄に攻められ落城した。

地区内の主な呼称としては殿山、武道原、腰巻、徒(かち)坂、姥坂、止め場、おくり(御庫裏)、文治屋敷、松屋敷、新屋敷、吉右衛門屋敷等がある。

文化財情報

  • 指定種別:高崎市指定史跡
  • 名称:奥平城跡(おくだいらじょうあと)
  • 指定年月日:昭和46年6月29日
  • 所在地:高崎市吉井町下奥平 地図(地図情報システム)​<外部リンク>