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明徳元年在銘宝篋印塔

ページID:0006466 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

高崎市にある指定文化財 市指定

明徳元年銘の入った宝篋印塔の画像
明徳元年銘の入った宝篋印塔

宝篋印塔は中国で密教を大成させた高僧不空三蔵の教えからきた名称で、「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)を写して塔の中に置き、一香一華を供えて礼拝供養すれば、八十億劫生死(ごうじょうし)重罪が一時に消滅し、生きている間は災害を免(まぬが)れ、死後は必ず極楽に生まれ変わることができる・・・・」ことを願って造立(ぞうりゅう)されています。この宝篋印塔は、西横手町の西福寺(廃寺)にあったものだそうです。台石に「明徳元年庚午十月日」と造立年月日が刻まれています。明徳元年は西暦1390年にあたり、当時は南北朝※の争乱が一応終結をみる時ですが、明徳は北朝の年号で、その頃の上野国の動静を探る手がかりにもなります。

※南北朝時代:建武3/延元1(1336)年建武政権の崩壊から、明徳3/元中9(1392)年の南朝消滅に至るまでの実に50年以上続いた、日本に二つの朝廷が存在した時代です。1336年8月に足利尊氏が持明院統の光明天皇を擁立すると、11月に入り後醍醐天皇は神器を渡しましたが、12月に入って、「あの神器は偽物である。」と称して吉野に入り、二つの朝廷が併立した状態になってしまいました。その後、足利尊氏が擁立した北朝は室町幕府派、北畠親房をはじめとする一部の公家や武家、寺社の勢力に支えられた吉野の南朝は反室町派として、全国的な内乱状態が続いたのでした。この頃は、年号が南朝と北朝両方からついているので二つあるのは興味深いですね、ちなみに明徳は北朝の年号なので、このあたりは幕府よりだったのでしょうか?

文化財情報

  • 指定種別:高崎市指定重要文化財
  • 名称:明徳元年在銘宝篋印塔(めいとくがんねんざいめいほうきょういんとう)
  • 指定年月日:昭和51年1月14日
  • 所在地:高崎市西横手町