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かみつけの里博物館 常設展示案内

ページID:0004493 更新日:2024年1月28日更新 印刷ページ表示

かみつけの里博物館は「上毛野はにわの里公園」の特別施設として、平成10年春にオープンしました。はるか古代の栄華と神秘の謎に迫ります。
館内は、榛名山麓の古代文化を9つのコーナーで紹介し、遺跡から出土した埴輪、土器、日本最古の飾履(くつ)などの遺物や、ビジュアルな復元模型により解説をしています。
また、企画展も随時開催されています。

常設展示 古代文化紹介

施設常設展示案内図
榛名山麓の古代文化を9つのコーナーで紹介しています

1 よみがえる5世紀

5世紀のかみつけの里を模型で復元

5世紀の社会景観を復元した「榛名山東南麓古墳社会復元模型(縮尺=500分の1)を中心に、解説映像と併せて、展示室全体のガイダンス的な役割を行います。

2 王の館(三ツ寺遺跡)を探る

古墳と主と思われる豪族の館

三ツ寺1遺跡は、日本ではじめて発見された豪族の館です。このコーナーは、館の復元模型(縮尺=100分の1)と、出土した遺物で構成しています。壁面に描かれた発掘調査図のポイントから王の館の内部状況を探ってみます。

3 王の姿を探る

全国にある5世紀の前方後円墳分布図と、5つのテーマからなる解説シートで構成します。古墳の動向と文献から、三ツ寺の王や上毛野地域(現在の群馬県)が、日本のなかで、また東アジアのなかでどのような位置を占めていたのかを探ります。

4 王の墓を探る

古墳づくりの様子

八幡塚古墳の築造時推定復元模型(縮尺=80分の1)を中心にすえ、古墳づくりに携わった人々、数字で見た古墳づくり、作業工程からみた古墳づくりなどの視点から模型の理解を深めるよう構成しています。当時の巨大の墓がどのようにつくられ、どんな人々が働いていたのかを通して、この時代の組織や技術体系を探っていきます。

5 広がる小区画水田

細かく区画されて水田を再現

火山災害で5世紀の地表が良好に保存されたため、当時の大規模な農地の状況や田作りの詳細な情報が遺跡に残されました。ここでは、発掘データから復元した古墳時代の復元模型(縮尺=80分の1)を中心に、初夏におこなわれた農作業のようす、技術体系を再現しています。

6 火山灰に埋もれたムラ

点在する集落を緻密に再現

火山灰にパックされた下芝遺跡群、黒井峯遺跡、中筋遺跡などの発掘データをもとに、典型的なムラの姿を模型(榛名山東南麓の古墳時代ムラ 縮尺=80分の1)で再現。これに、竪穴住居・ムラの大祭祀の場をイメージした出土品の展示ステージ配置し、当時のムラの生活や祭祀・世帯の単位などを探っていきます。

7 海の向こうからきた人たち

下芝谷ツ古墳から発見された日本最古の飾履(金のクツ)の展示を中心に、朝鮮半島の影響を受けた積石塚古墳の分布やさまざまな渡来系文化を紹介しています。

8 埴輪に秘められた物語

埴輪は王の生活を再現したものという説も

保渡田7遺跡から出土した埴輪群像を中心に、埴輪の物語るストーリーを映像で解説。王の埴輪を中心とする群像、狩人の埴輪や猪の埴輪からなる狩人群像などか、葬送や王位継承などの儀礼、当時の精神世界を表していることを紹介します。

9 埴輪の人・動物・もの

展示室の背面には榛名のシルエットが広がる

種別ごとに埴輪を展示し、あわせて国内各地の事例を紹介しながら、埴輪が示す古墳時代の人々の実像を紹介するギャラリーです。

かみつけの里の世界

紀元5世紀、今からおよそ1500年さかのぼった遠い昔、榛名山南東地域一帯を治めた王族がいました。現在も残る保渡田古墳群はその王達が眠る場所です。車持氏(くるまもちし)と呼ばれたこの一族が治める場所は車郡(くるまさと)と呼ばれ、この名は、後の群馬県という名に繋がります。

「グンマ」は「クルマ」からはじまった

5世紀のかみつけの里を模型で復元

古代、群馬の一帯は上毛野国(かみつけのくに)と呼ばれ、榛名山南東は車(くるま)と呼ばれていました。奈良時代になると朝廷はめでたい字で二文字に地名を改めるよう命令し、上毛野(かみつけの)は上野(こうずけ)、車は群馬(読みはくるまのまま)になりました。そして明治4年に上野国は古代から一番大きな郡であった群馬の名を取り、群馬県となりました。

有力な王の墓-保渡田古墳群

保渡田古墳群の画像

かみつけの里博物館のある「上毛野はにわの里公園」内には保渡田古墳群と呼ばれる三つの前方後円墳があります。これらは、5世紀後半の約30年程度の間に、二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳の順に築かれました。

巨大な豪族の館-三ツ寺1遺跡

古墳の主と思われる豪族の館

保渡田古墳群から南東約1キロ付近では、上越新幹線の建設に伴い、豪族の館が発掘されました。一辺が86メートルの方形を取り囲む、幅30メートル、深さ4メートルの堀を持つ巨大な邸宅跡は古墳時代のものと考えられ、保渡田古墳群に葬られた王族の館だといわれています。5世紀後半に隆盛を極めたこの王家は、榛名山の2度の噴火によって、転居もしくは衰退したと思われます。