高崎学検定講座「逃げた県庁、逃げられた県庁-花燃ゆと県庁移転問題-」の報告

高崎学検定

高崎学検定講座の報告

下記のとおり講演会を開催しました。その概要をご報告いたします。

日時および会場

  • 日時:平成27年7月25日(土)午後1時30分から
  • 会場:高崎市市民活動センター・ソシアス 市民ホール

講座資料

高崎学検定講座資料(PDF形式 319KB)

講座内容

今回は「逃げた県庁、逃げられた県庁~花燃ゆと県庁移転問題~」と題して、幕末維新以降、県庁が前橋に確定するまでの変遷と、高崎市と前橋市の両市民がこの問題にどのように対応したのかをご講演いただきました。

第一次群馬県の県庁は1871年(明治4年)11月19日に旧高崎城下に開庁しましたが、翌年の6月15日には旧前橋城下に移転しました。その後、群馬県と入間県は合併し、これに伴い名称を熊谷県とし高崎に支庁を置かれたとのことです。

「第二次群馬県」とは現在の「つる舞う形の群馬県」の形になってからを指し、第二次群馬県の当初の県庁は仮庁として1876年(明治9年)9月1日高崎市通町の安国寺に開庁しました。しかし行政組織が安国寺だけでなく市内数箇所にわたり配置され、執務しづらかったため、楫取県令はあまり使用されていなかった前橋城の建物を県庁に使いたいと、内務卿大久保利通に伺い書を提出しました。そして同年9月29日に前橋に県庁が開庁されました。その背景には県職員の住宅建設、師範学校の設立、衛生局(所)の設立といった、県側の意向を汲めるだけの前橋の経済力があったとのことです。前橋が県庁誘致の中心になったのは生糸貿易で財をなした産業人と市民であったのに対し、高崎では旧高崎藩の士族と市民であり、経済力の差が県庁移転において大きく影響したとのことです。

前橋への県庁移転に対して高崎市民の反発は当然凄まじく、楫取県令は「地租改正の作業が終わればすぐに高崎に県庁を新築する」と約束しましたが、1881年(明治14年)2月16日に太政官布告により県庁の位置は高崎から前橋に定められました。高崎市民は説明を求めましたが、県は「県庁の位置は県の裁量はおよばない」とし、楫取県令との約束は守られることはありませんでした。これに対し高崎市民は大挙をして前橋に向かい、その数は3千人にも及びました。この時、高崎市民は「過激粗暴な行動は厳禁 伍長の指揮に従う 大声禁止 粘り強く運動 禁酒」と申し合わせ整然と行動し、これに対し前橋市民は市内の7寺に高崎市民を宿泊させ、弁当と当時は貴重だった砂糖を送りました。この両市民の対応は立派であり、県都を巡り対立はしているが、両市民の良識が働いたのであろうとのことです。最終的に県庁移転問題は裁判となり、1882年(明治15年)3月7日に高崎が敗訴となり、県庁が前橋に確定したと締めくくられました。

石原先生におかれましては多くの史料を基に、ユーモアを交えながら熱心にご講演いただきありがとうございました。

公演を行う石原講師

講師プロフィール

石原 征明 (いしはら ゆくあき)

  • 1932年高崎生まれ
  • 國學院大學大学院日本史学専攻博士課程終了
  • 県内中学校及び県立高等学校、群馬県史編さん室勤務
  • 共愛学園女子短期大学教授、共愛学園前橋国際大学教授、同大学名誉教授

講座音声

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