詩文紹介
かまちが短い生涯を終えた後、部屋から見つかったおびただしい数のノートには、詩や日記、恋する人への思い、絵画、音楽への思いなどが綴られていました。
一部をご紹介します。
(2ヶ月に一度程度で更新します。)
「音楽はうわべだけじゃないんだ」
音楽はうわべだけじゃないんだ。
聞いているとは何か
口で言えない何か真の何か
が、伝わってくるのだ。
それを伝えるための
たとえば、
手紙は紙と字だけだ
けれど、それで相手の
心が伝わってくるだろう…
そういうものだ。
心を伝えるための
ひとつの方法にすぎないんだ。
だから絵でも
なんでも
なんでもいいんだ
真の心を伝える
つまり愛を伝えるための
高度な手段なんだ。
(1977年4月)
※改行は原文のままとしています。
かまちの芸術や表現への考えが綴られた詩文です。ノートの筆跡はやや荒々しく、昂ぶる心のまま書きつけていたと想像できます。
かまちの詩文にはしばしば、物事の本質や真実を追究する言葉が書かれています。
この詩文の「聞いているとは何か 口で言えない何か真の何かが、伝わってくるのだ。」、「真の心を伝える つまり愛を伝えるための高度な手段なんだ。」という文章からも、表現することの奥にある、“真”に目を向けていたことが分かります。
「水平線から」
ああ、なぜ ぼくは
あの地平線の
はえる 影の木みたいに
あの地平線の
とぶ、影の鳥たちみたいに
ああ、なぜ ぼくは
こんなに こんなに
飛べない日々を
悲しく、送るのだろう。
ああ、なぜ ぼくは
いや、きっと 来るにちがいない
あの、水平線の波の波長の
あいだから あがる あがる 魚たち
そうだ きっと くる。
ああ、この音の響き!
ぼくは 明日
めざめるにちがいない。
(1975年1月20日)
※ 改行、行間および字下げは、原文のままとしています。
14歳のかまちが書いた詩文です。
景色や生き物たちの描写に、少年の揺れ動く心が映し出されているように感じられます。
「ああ、なぜぼくは こんなにこんなに 飛べない日々を 悲しく、送るのだろう。」ともどかしさが語られる一方で、読み手には遠くまで澄み切った地平線や水平線の、さわやかな風景をイメージさせてくれます。
鳥も魚もかまちが絵画にも好んで用いたモチーフで、そこには彼の思い描く自由や希望が託されています。
めざめたかまちの目の前にはどんな景色が広がっているのでしょうか。