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「和田城 - 中世の高崎を探る -」の報告

ページID:0003105 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

「和田城- 中世の高崎を探る-」の講演会を下記のとおり開催しました。その概要をご報告します。

日時

令和元年6月15日(土曜日)午後1時30分から

会場

高崎市市民活動センター・ソシアス 市民ホール

講座資料

和田城(PDF形式 141KB)

年表(PDF形式 122KB)

講座内容

戦国時代の和田城について、講師の専門である考古学と発掘調査、多くの古文書や文献史料をもとに、4つの視点からひも解いていただきました。

和田城はどこにあったか?

  1. 上和田・下和田・和田多中という地名
  2. 興禅寺の絵図(県内最古)に「和田ノ城」が明記
  3. 発掘により溝跡が見つかる これらなどから国道17号和田橋交差点信号から東側周辺にあったと考察される。

甲斐武田氏との関係について

1560年頃、上杉氏に組していたが、数年後に武田氏に従属したと考える。

  1. 武田信玄から和田城の普請について金銭や労働力の提供
  2. 武田氏の家臣を和田氏の養子に迎える
  3. 信濃形内耳土器が多く出土 これらなどから、武田氏の影響はかなりあったといえる。

和田城と周辺の様子について

  1. 本丸と二の丸のみの城
  2. 堀は空堀
  3. 赤松やニワトコの木が生息
  4. 天目茶碗や水滴、かわらけも出土
  5. 鎌倉道という街道、宿場もある これらなどから城内では宴会や連歌会、地鎮祭もおこなわれ、城下もにぎわっていたと考える。

和田三石について

上和田の円石・和田の立石・下和田の方石が現存し、和田氏が愛着を持っていた石といわれ、土地利用のための指標、標石であった可能性もある。

様々な文献史料や発掘調査の分析をもとに、和田城とその周辺の様子をわかりやすく説明していただき、その時代の政治情勢や人々のくらし、文化を身近に感じることができました。

講師プロフィール

清水 豊(しみず ゆたか)

  • 1963年 高崎市生まれ
  • 東北学院大学文学部史学科考古学専攻 卒業
  • 1988年 群馬町教育委員会 入職
  • 1998年~2008年 10年間 かみつけの里博物館 学芸員
  • 2009年 観音塚考古資料館 学芸員
  • その後、埋蔵文化財担当を経て
  • 2014年から かみつけの里博物館 次長
  • 専門は、中近世考古学

著書

  • 『戦国史ー上州の150年戦争』(2012)上毛新聞社 (共著)
  • 『ぐんまの城 30選』(2016)上毛新聞社 (共著)
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