特別史跡 多胡碑

所在地:高崎市吉井町池1095

指定年月日
史跡:大正10(1921)年3月3日
特別史跡:昭和29(1954)年3月20日

解説

多胡碑は、奈良時代初めの和銅[わどう]4(711)年に上野国の14番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑です。

建郡に際しては、「羊[ひつじ]」という渡来人[とらいじん]とおもわれる人物が大きな役割を果たし、初代の郡長官になったようです。碑を建てたのも、この「羊」であると考えられ、碑の後段には当時の政府首脳の名を挙げて権威付けをはかっています。

多胡郡の範囲は、現在の高崎市山名町から吉井町一帯で、かつて緑野屯倉[みどののみやけ]や佐野屯倉[さののみやけ]というヤマト政権の直轄地が設置されていた領域と重なります。そのため、当時は先進的な渡来系技術が導入され、窯業[ようぎょう]、布生産、石材や木材の産出などが盛んな手工業地帯になっていました。

このことから、多胡郡建郡は当時の政府による生産拠点のとりまとめと、それに伴う郡の区割りの見直しが目的であったと考えられます。

碑身[ひしん]に笠石[かさいし]をのせる形状や楷書体[かいしょたい]の文字には、当時最先端の中国文化の影響がみられますが、一方で18世紀に多胡碑の拓本が朝鮮通信使を通して中国に渡り、書の手本として中国の書家に影響を与えました。このように、多胡碑は東アジアの文化交流の様子を示す重要な資料です。

碑の現状

笠石[かさいし]・碑身[ひしん]・台石[だいいし]から構成され、笠石は幅95センチ・奥行90センチ・中央厚さ27センチ・軒面厚さ15~17センチで、方形の笠のような形で下部がへこんでいます。

碑身は高さ129センチ・幅69センチ・厚さ62センチの方柱状で上部に低いホゾがあり、この上に笠石が載っています。

牛伏砂岩[うしぶせさがん]といわれる花崗岩質砂岩[かこうがんしつさがん](別名天引石[あまびきいし]・多胡石[たごいし])の転石[てんせき]を成形し、前面の平らな部部に縦書き6行で80字が丸底彫り[まるぞこぼり]されている。台石は第二次大戦後、コンクリート製に造り替えられました。

銘文

読み方

弁官符[おお]す。上野国の片岡郡[こおり]、緑野[みどの]郡、甘良[から]郡并せて三郡[みつのこおり]の内、三百戸を郡となし、羊に給いて多胡郡[たごのこおり]と成せ。
和銅四年三月九日甲寅[きのえとら(こういん)]に宣[の]る。
左中弁・正五位下多治比真人[たじひのまひと]。
太政官・二品穂積親王[にほんほづみのみこ]、左太臣・正二位石上尊[いそのかみのみこと]、右太臣・正二位藤原尊[ふじわらのみこと]。

現代語訳

朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅四(七一一)年三月九日甲寅。左中弁正五位下多治比真人による宣旨である。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、右太臣正二位藤原(不比等[ふひと])尊。

多胡郡の郷名

織裳[おりも]郷
もと甘良郡。高崎市吉井町長根に地名が残る「折茂」地域が織裳郷と推定されています。
韓級[からしな]郷
もと甘良郡。高崎市吉井町神保に鎮座[ちんざ]する辛科[からしな]神社周辺が韓級郷と推定されています。
矢田[やた]郷
もと甘良郡。高崎市吉井町矢田に地名があり、この地域が矢田郷と推定されています。古くは「八田」と書きました。
大家[おおやけ]郡
もと甘良郡。多胡碑の所在する場所が高崎市吉井町池の「御門[みかど]」という地名であり、多胡郡家[ぐうけ](郡役所)の所在地とみられていることから、この地域が大家郷と推定されています。
武美[むみ]郡
もと緑野郡。この郷名は地名に残っていませんが、かつての緑野郡である藤岡市に隣接する高崎市吉井地区の南東地域と推定されています。
山部[やまべ]郷
もと片岡郡。『続日本紀』に「山等」とあり、桓武天皇の諱[いみな]*である「山部」を避けて「山字[やまな]」と改められたことから、高崎市山名町[やまなまち]地域が山部郷と推定されています。

*用語
諱(いみな)-生前の実名。天皇の名を口にすることや、文字に書き記すことは、はばかられました。

多胡郡推定範囲図

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上野三碑 こうずけさんぴ

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