特別史跡 金井沢碑

所在地:高崎市山名町金井沢2334

指定年月日
史跡:大正10(1921)年3月3日
特別史跡:昭和29(1954)年3月20日

解説

金井沢碑は、奈良時代前半の726(神亀[じんき]3)年に三家氏[みやけし]を名乗る豪族が、先祖の供養と一族の繁栄を祈って建てた石碑です。三家氏は、佐野三家[さののみやけ]を管理し、山上碑[やまのうえひ]を建てた豪族の子孫であると考えられます。

碑文には、三家氏を中心とした9人の名前が記されています。碑を建てたのは三家子□(□は欠字)という人物で、上野国群馬郡下賛郷高田里[こうずけのくにくるまのこおりしもさぬごうたかだのさと](現在の高崎市上佐野町・下佐野町周辺か)に住んでいたようです。続いて、三家子□の妻と娘[物部君[もののべのきみ]氏に嫁ぐ]、孫3人の名前が登場します(グループ1)。この6人ほか、同族とみられる三家毛人[みやけのえみし]・知万呂[ちまろ]の兄弟と礒部君身麻呂[いそべのきみみまろ]の3人の名がでてきます(グループ2)。

この9人のうち4人が女性で、結婚後も実家の氏の名で呼ばれていること、子供達と共に実家の祖先祭祀に参加していることから、家族のつながりに女性が大きな役割を果たしていたと考えられます。

さらに、地名の表記などからは、当時の行政制度(国郡郷里[こくぐんごうり]制)の整備状況が分かります。ちなみに、碑文に出てくる「群馬」の文字は、県内では最古の事例であり、群馬県の名前のルーツを知る上で非常に重要な資料です。

このように、金井沢碑からは、古代東国での仏教の広がり、家族関係、行政制度の実態などを知ることができます。


金井沢碑にみる家族・氏族関係(勝浦令子氏説)


「物部私印」の文字がある銅印
(矢中村東遺跡出土 / 平安時代)


佐野三家の推定範囲

碑の現状

大きさは高さ110センチ、幅70センチ、厚さ65センチ。硬質の輝石[きせき]安山岩[あんざんがん]の自然石を使用し、前面の平らな部分に、縦書き9行で112字が刻まれています。風化のため文字が判読しにくい部分があります。

銘文

読み方

上野国[こうずけのくに]群馬郡[くるまのこおり]下賛郷[しもさぬごう]高田里[たかだのさと]の三家子□が、七世[しちせい]父母と現在父母の為に、現在侍[はべ]る家刀自[いえとじ]の他田君目頬刀自[おさだのきみめづらとじ]、又児[こ]の加那刀自[かなとじ]、孫の物部君午足[もののべのきみうまたり]、次に※刀自[ひづめとじ]、次に若※刀自[わかひづめとじ]の合せて六口、又知識を結びし所の人、三家毛人[みやけのえみし]、次に知万呂、鍛師[かぬち]の礒部君身麻呂[いそべのきみみまろ]の合せて三口、是の如く知識を結び而[しこう]して天地に誓願し仕え奉[たてまつ]る石文[いしぶみ]

神亀[じんき]三年丙寅[へいいん(ひのえとら)]二月二十九日

※は「ひづめ」(馬偏に爪)

現代語訳

上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子□が(発願して)、祖先および父母の為に、ただいま家刀自(主婦)の立場にある他田君目頬刀自、その子の加那刀自、孫の物部君午足、次の※刀自、その子の若※刀自の合わせて六人、また既に仏の教えで結ばれた人たちである三家毛人、次の知万呂、鍛師の礒部君身麻呂の合わせて三人が、このように仏の教えによって(我が家と一族の繁栄を願って)お祈り申し上げる石文である。

神亀三年(七二六年)丙寅二月二十九日

*用語
家刀自―家を統括する女性の位。主婦。
知識―仏教の教え。
鍛師―製鉄や金属加工に携わる職。

ページの先頭へ

上野三碑 こうずけさんぴ

お問い合わせ

高崎市教育委員会事務局文化財保護課

TEL: 027-321-1292