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第27回商業学校と実践女学校

ページID:0005152 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

たかさき100年第27回写真
高崎商業の実習販売の様子

高崎は、「お江戸見たけりゃ高崎田町」といわれるほど、古くから商業が盛んな町でした。そのため、市民の間では早くから商業学校をつくろうという動きがありました。

明治35年(1,902年)に宮元町の高等小学校(現住友生命ビル附近)で、放課後を利用した1日2時間の商業補習学校が始まりましたが、少数の生徒しか集まりませんでした。

明治41年、高等科が各小学校に分散されたため、5月26日、高等小学校の校舎を使い高崎市立甲種商業学校を開校しました。初代校長には、新潟県立商業学校の松村明敏を迎えました。県内唯一の商業学校であったため、生徒の過半数は他郡市の出身者でした。商業学校に対する高崎市の支出は、予算の九パーセント以上にもなっていましたので、高崎市選出の芥川辰次郎県議らは、激しく県立移管の運動を行いました。

大正6年(1,917年)、校地も狭く施設も老朽化したため、市は校舎を台町(今の警察署と県合同庁舎)に移転新築し、県に寄付、翌7年から県立高崎商業学校となりました。

大正9年から始まった高商の実習販売には、たくさんの市民がつめかけ、高崎の名物行事になりました。

大正12年(1,923年)の暮れ、中央小学校が宮元町(今の東京電力)から現在の常盤町に移転したため、中央小の旧校舎に、女子に実業教育を与える実践女学校を設立することが提案されました。高崎市教育会の建議を受けた土谷全次市長と天田滝治教務課長が推進役でした。

ところが「大高崎建設」のためには工業の発展が不可欠で、それには工業学校をつくることが急務であると主張する人もいました。工業学校推進派の市議会議員松井親民が市議会で「実践女学校案を文部省が認可すれば腹を切る」と豪語すれば、実践女学校を推進する市長は「首にかけても認可を取って見せる」と応酬しました。結局、文部省の認可がおり、松井議員は辞表を提出しました。

大正13年4月8日、岡田与市を初代校長に市立高崎実践女学校が開校しました。生徒の服装は、着物にエビ茶袴と黒い靴、髪は後で一つに束ねていました。これが当時ではカッコよかったようです。

大正15年2月に第1回「実践バザー」が行われ、生徒が日ごろの学習成果を発表、和洋裁の作品やカレーライス、アイスクリームなどを販売する学校あげての行事でした。昭和9年(1,934年)に昭和町に移転後も「実践バザーに不況なし」といわれ、これも高崎の名物になりました。

(佐藤健一)