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水道事業の沿革

ページID:0004768 更新日:2023年12月18日更新 印刷ページ表示

創設時の剣崎浄水場排水池築造工事

初期の水道の概要

高崎市の初期の水道施設を見ると、明治20年頃、高崎町の中心部である本町ほか14か町の有志が相図り、烏川の流水を引入れた長野堰用水を水源とし、分流新井堰より取水して、15か町の町民を給水対象とした小規模の水道を築造した。その規模は極めて弱小で、高崎全町に給水するに至らず、また、防水用としても効果が少なく、明治27、28年頃から本格的な水道布設が強く望まれるようになった。最近にいたり下水道工事、あるいは道路拡幅工事等で、この水道施設の配水陶管や鋳鉄管の片落管及び沈でん池跡とみられるものが発掘されている。

創設

明治33年4月、高崎町に市制が施行され、初代市長矢島八郎氏及び市の有志は、まず水道布設を緊急な大事業とし、翌34年4月本県、沖技師にその計画を委嘱し、水源予定地として、碓氷郡里見村神山の春日堰に引入れ口を設け、碓氷郡八幡村剣崎山頂に導流、ここに貯水池及びろ過池を設け、自然流下により市内に給水する計画を立て、測量設計等を進めるとともに、水源地里見村長と水源に関する契約を締結した。

明治36年7月9日関係者機関に水道布設認可申請書を提出し、同40年9月5日水道布設が認可され、同年11月3日起工式をあげるとともに鋭意工事を進め、同年43年11月30日総工費58万円を投じ全国で20番目、県内で最初の水道が完成した。当時の高崎市の人口は約3万5,000人でしたが将来の市勢発展を見込んで給水人口5万人、1人1日最大給水量135リットルを想定しました。

その後、数次にわたる拡張事業を行い、1日当たり176,975立方メ-トルの給水能力までに発展しました。水源も、烏川から地下水、昭和55年からは群馬用水の農業用水を転用した利根川の水が取水できるようになりました。水道普及率も99.9%となり、ほとんどの市民が水道を利用する高普及時代を迎えるに至りました。