徳川忠長は二代将軍秀忠の三男であり、駿河大納言(するがだいなごん)と呼ばれた時代もありました。
しかし、その後御乱行(ごらんこう)がとがめられ、寛永9(1632)年に高崎城に幽閉(ゆうへい)されることになりました。
城主安藤重長は、しばしば赦免(しゃめん)を哀訴(あいそ)しましたが、認められず、寛永10(1633)年に死を命じられました。
忠長28歳の若さであったといいます。
罪が許されたのは、四代将軍家綱の時代で、死後43年が経過してからでありました。
忠長の墓は、大信寺の境内にある巨大な五輪塔(ごりんとう)で、周囲には石の玉垣がめぐらされ、正面の石の扉には三葉葵(みつばあおい)の紋が刻まれています。
罪が許された後も、幕府に遠慮して墓が鎖でつながれていたので、「鎖のお霊屋(たまや)」と呼ばれていました。墓はもともと立派な廟(びょう)の中にありましたが、廟は戦災で焼失してしまいました。
大信寺には硯箱、水晶のつぼと仏舎利塔(ぶっしゃりとう)、千姫から送られ、豊臣秀頼が着用した陣羽織を袈裟(けさ)に作り変えたもの、自刃に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに保存されています。 |